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苦痛を望む者たちの理想の住宅。周藤蓮『バイオスフィア不動産』第1話「責問神殿」

Hayakawa Books & Magazines(β)

 もしも死ぬまで外に出なくていい、生きるための全てが内部で完結する家があったら? 『賭博師は祈らない』『吸血鬼に天国はない』『明日の罪人と無人島の教室』周藤蓮氏による最新作、『バイオスフィア不動産』の第1話「責問神殿」を試し読みとして公開します。

装画:えすてぃお/装幀:伸童舎

――――――― 

排水口がゴボゴボと濁った音を立てている。

 流れ込んだ人々の血液、肉、脂肪、骨片、体毛などが詰まり、淀んでいるのだ。そこから湧き上がる臭気は鼻をつまんだところで堪えられるものではない。

 シャワーから噴き出した水が傷口に触れて、その僧侶は呻きを上げた。

 繰り返し鞭打たれた背中は、花開くように皮膚と肉が弾け、垂れ落ちている。溢れ出す血は止めどなく、既に床を濡らす誰かの血液に混ざっていった。

「ぐ、ぅ……」

 それがこの『神殿』の日常だった。

 繰り返される傷、繰り返される痛み。血を流さなかった日も、涙を流さなかった日も、ここにきて以来、一日たりともない。

 今にも倒れてしまいそうだったが、倒れたところで誰かの助けは望めないだろう。

 代わりに、包みを破いて注射器を一つ取り出した。

 包装には効能が丁寧に記されている。

 注射器に入れられた薬剤は傷口の再生を促し、血液を補填し、感染症などを退け、しかし痛みだけは一切取り払わない。

 つまりこの注射は痛みだけを享受させ、それに伴う副作用を全て除去する。打てば再び責め苦が待つだけと知りながら、それでも打つと覚悟を決めねばならないものだ。

 だが、今、その僧侶にはそうした文言を読む余裕はなかった。

 ただ迫る死に怯え、すがりつくようにして注射器を握りしめる。その理屈も理由もわからないまま、一心に救いを求めるその様は、まるで注射器を神として崇めるようですらあった。

 この『神殿』はつまり、そんな場所だった。

 ここにはただ、痛みだけがある。

 死も傷も病も意味を失って、痛みだけを積み上げる場所として、ここは存在している。

 震える指先で注射器のキャップを外し、その針を自身の首に向ける。もう慣れてしまった仕草で自分に注射を打とうとし、

「……あ」

 しかし、今日はその手を滑らせた。

 シャワー室の床を注射器が転がっていく。濡れた床で勢いのついたそれは、設けられた棚の下へと入り込んでしまった。

「っ、あぁ」

 溜め息。気力を振り絞って、歯を食いしばり、かがみ込む。それだけで意識が遠のきそうなほどの痛みが全身を走った。

 そうしてその僧侶は落とした注射器を拾おうとし、物陰を覗き込んで、

「…………え?」

 そこで、ありうべからざるものを見た。

    *

 呼び鈴を鳴らそうと人差し指を立ててから、それが無意味な仕草であることに思い至った。

 この家にはチャイムがないからだ。加えていえば窓も玄関も存在せず、艶と凹凸のない白い壁によってのみ構成されたその建物は、住居というよりは巨大な豆腐のようだ。

 誰かの訪問を想定している造りとはとてもいえないが、仕方ない。バイオスフィアⅢ型建築とはそういうものである。

『何をしているんだ、ユキオ』

 片手を持ち上げたままで止まっていたこちらをいぶかしんで、通信越しにアレイが問いかけてくる。

 不機嫌そう、と思ってから訂正する。アレイの声はいつだって不満げな響きを帯びているので、今が特別に気分を害しているということを意味していない。

「おまじないのようなものですかね」

『は?』

「何でもないです。扉、開けてもらえます?」

『だな。さっさと仕事に取りかかるとしよう』

 家に向かって通信が行われる気配をユキオは感じる。同時に壁面の内側からさりさりと音がし始める。リアルタイムで構造が変えられ、開口部が作られていく。

 白い壁に縦の直線が走り、徐々にその太さが広がるのを見ながら、ユキオは問いかけた。

「ちなみに、この家に扉が開くのはいつぶりですか?」

『記録だと最後に開いたのは六年前。追加の入居者が入っている。その前は十一年前。およそ五十年の歴史で、この家の扉が開かれたのは七回だ』

「バイオスフィアⅢ型建築にしてはよく開かれている方ですね」

『現在の内部の居住者は三十七人。バイオスフィアⅢ型建築にしてはまあまあだな』

 前世紀の終わりにバイオスフィアⅢ型という新たな建築様式が生み出された。その定義は極めて明確かつ簡潔だ。

 内部で資源的、エネルギー的に完結していること。

 そのシンプルな定義は、言い換えれば、この家に入った人間は望むのならば半恒久的に内部で生きていけるということである。少なくとも、人間の寿命が尽きるまでは。

 壁面が崩れ、人一人が入れるほどの隙間が作られる。最初、単なるくぼみとして現れたそれは見る間に建物奥へと延びていって、廊下に変わった。元々存在していた部屋へと接続され、薄暗い開けた空間が目に入る。

 内部はやや陽圧だったのか、微かな風が流れてきた。

『数十年もののかび臭い空気はどうだ?』

 内心でそうだろうかとユキオは疑問を抱く。

 古びるということが経年による意図しない変化を指すのならば、完璧な循環が保たれるバイオスフィアⅢ型建築の中の空気は決して古びない。歴史を背負い、変化し、古びていっているのはむしろ外気の方だ。

 即席の通路を通って辿り着いたのは、巨大な広間である。ギリシャの遺跡を連想するような太い柱が規則的に並び、天井は薄暗がりに紛れて見えない。

 画一的だった外壁と対照的に、内部は情報量が多い。

 ざらついた石材でできた床は、摩耗によって緩やかに波打ち、長い年月を経てきたように見える。もちろん、そう見えることと実際にそうであることの間には、大きな隔たりがあるけれど。

 背後で通路が閉じていくと同時に、誰かがこちらへと近づいてくる。その人影の一歩ごとに鎖がじゃらりと鳴る音がする。よく見れば、近づいてくる彼の足には足枷がついていた。枷につけられた鎖と重りが、彼の足取りに不穏な音を添えているのだ。

 男が、ユキオに向かって話しかけてくる。

「初めまして。後香ごこう不動産の方ですね?」

 こういう時、自分の表情を気にする必要がなくてよかったとユキオは思う。つまり男の身体を覆うボロボロの貫頭衣や、布地の下に覗く皮膚を埋め尽くす無数の傷跡、それに足枷で擦れ、滲んだ血といったものに反応を示さないで済んだからだ。

 男にとってはその状態は平常のことなのだろう。中年の男性は怪我を気にする素振りで歩きながらも、しかしどこか慣れた仕草だった。

「『責問神殿』へよくぞいらっしゃいました。私はあなた方の案内を、僧侶長より仰せつかった僧侶です」

 意外と流ちょうにしゃべる。ユキオは内心、少し驚く。

 長い間この神殿は、ほとんど扉を開くこともないままに過ごしていた。閉じた環境下で長く過ごせば、文化がガラパゴス化していくのは自然な流れである。外部の人間と社交的に話すなんて能力がこの建物の人に残っていたことは、予想外だった。

「後香不動産のサービスコーディネーターに失礼があってはなりませんから。本日の調査に関して、気になる点などがありましたら何なりとお申し付けください」

 頷いてから、少しの誤解があることに気づいた。

「あ、失礼。正確にいうとサービスコーディネーターはこの場にはいませんよ。サービスコーディネーターであるアレイは通信越しに業務を行わせていただきます」

 アレイの声がユキオのスピーカーを通じて出力される。

『よろしく』

 急に聞こえた男性の声に、僧侶の男は戸惑った様子を見せた。

「えっと、あの、はあ…………」

 ユキオは胸元に手を当ててお辞儀をする。

「私はアレイが業務を円滑に行うためのデバイスです。私個人に呼びかける必要があり、識別名称が必要な場合にはユキオと呼んでください」

 こちらの全身をじろじろと眺め回して、男は僅かに首を傾げた。

「ロボット、ですか? 変わった方ですね」

 ユキオもまた自分の身体を見下ろす。

 黒いセーラー服。カーボンファイバーの黒い手足。頭部はフルフェイスのヘルメットじみたつるりとした球体。傍から見た時の全体の印象は、滑らかで無機質なマネキンという感じだろうか。

 顔の前面を構成するスクリーンに、ユキオは男への返事の代わりとして笑顔の絵文字を浮かべた。

「私の外見は、サービスコーディネーターのデバイスとしては標準的ですよ」

『そのデバイスのことはどうでもいい。さっさと話を進めろ』

 アレイの声を聞いて、僧侶の男が頷く。

 しかし続いて発せられた声は、酷く混乱したものだった。

「え、えぇと、サービスコーディネーターの方にお茶をお出しして、で、でも、ロボットの方は? お、おもてなし……我々の、おもてなし? い、痛み。痛みを与え……ち、違う。違う。それは外の常識ではない。そ、外に我々の真理はない。だから、えっと、ど、どうすれば」

 先程までの落ち着きぶりは消え、視線は忙しなく動き回り、言葉はごにょごにょと尻すぼみに消えていく。

 確かにサービスコーディネーター本人ではなく、そのデバイスがきたというのは少し意外な事態だったかもしれない。しかしそれにしても、僧侶の男の動揺ぶりは度を越しているようにユキオには思えた。

 同じ感想をアレイも抱いたのだろう。アレイは今度はスピーカーを通じず、ユキオにだけ聞こえるように音声を送ってくる。

『なんだ、こいつ。急に動揺してるが、なんか後ろ暗いことでも隠してるのか?』

 少し考えてから、ユキオもまた通信でのみ、アレイに返事をする。

『違いますよ、きっと。この「神殿」に来客があるのは随分と久しぶりで、そのための練習をこの人はしてきてくれたということです』

 このバイオスフィアの中に社交性が残っているのではない。

 来客に対して適切な言葉遣いと台本を、男は事前に準備して丸暗記してきたのだろう。文面を覚えているだけで、それを生み出す精神性があるわけではないから、想定外の事態には対応ができないのだ。

 ユキオは男の用意しただろう台本を想像し、音声を発した。

「私たちはこの『責問神殿』から届いた“ご意見”を調査し、解決するためにやってまいりました。内部の案内をお願いしても?」

 ご意見、つまりはクレームである。

 バイオスフィアⅢ型建築は恒久性を約束する建物だ。建物そのものにも、ひいてはそれを建てる後香不動産にも、クレームのつく余地などあってはならない。徹底した原因究明と、徹底した対応。後香不動産の基本はそれである。

 だからこうして内部だけで生きていけるバイオスフィアⅢ型建築へと、わざわざ足を運んできたのだ。

 ユキオの発した質問が、事前に用意してきた台本にうまく合流したのだろう。僧侶の男の動きが滑らかさを取り戻す。

「ええ、もちろんです。ではこちらへどうぞ」

 案内に従って歩き出しながら、ユキオは問いかけた。

「そうだ。そういえばあなたのことはなんとお呼びすれば?」

 男の足下で鎖がじゃらりと鳴った。

「アシカセ、とでもお呼びくだされば結構です」

   *

 この家が『責問神殿』と呼ばれている理由は、辺りを見回せばすぐにわかった。

 建物の中央は吹き抜けの巨大な広間で、それをコの字に囲うように廊下が走る。その廊下からはあちこちの部屋へとつながっているはずだ。

 立ち並ぶ柱によって視線は自然と広間奥へ誘導される。そこに鎮座しているのは巨大な鐘だ。人の背丈を超える大きさのそれは、室内の雰囲気も相まってか、不思議と神々しく見える。表面に刻まれている彫刻はオリジナルのものらしかったが、その意匠が聖書に由来していることを視覚補助システムが教えてくれた。

 そうしたものをひとくくりにして、非発声の通信でアレイが吐き捨てる。

『不細工な建築だ』

 枷をはめた僧侶──アシカセに続いて歩きながら、ユキオもまた音にはしない通信で答えた。

『そうですか? まぁ、確かに建築がギリシャ風な割に聖書がモチーフの鐘とか、建築様式の年代があちこちでバラついているとか、考証的に甘いとは思いますが』

『そんなところじゃない。不細工なのは、廊下がコの字なところだ』

 ちょうど広間を抜けて廊下へと入りながら、クエスチョンマークを送りつけた。

『柱が直線上に並んでいるのも、廊下がコの字なのも、本来は正面に入り口があったからだ。つまり、この建築の基になった遺跡には、という意味だが』

 建物に入ってきた時のことを思い出す。

 壁に穴を開けてもらい、広間へと踏み込んだ。その際に廊下を経由しなかったのは、神殿の正面に当たる壁には廊下が設けられていなかったからだ。

『誰も入ってこない、誰も出ていかない建築なら、全周に廊下を作った方が建物として効率的だし、正しい。正面というものを想定する意味がない』

『単に構造をコピペしたんじゃないですか?』

『いいや。単にこれは、未練だ。外というものがまだ頭のどこかにこびりついているから、この建物には正面がある。誰かがこの神殿を訪れ、礼拝するのだと、それに足る正しさが自分たちにはあるとここの僧侶は信じたがっている。そういう不細工さだ』

 一理はあるが、やや極論という感じ。アレイの意見はいつだってそういう向きがある。

 その時、廊下の向こう側からやってくるこの住居の人間が目に入った。薄暗い照明の下、近づいてくるにつれて徐々にその姿が鮮明に捉えられるようになる。

 彼の目は太い糸によって乱雑に縫い合わされていた。

「足音が二つ。誰だ?」

 ユキオたちへのそれとは少し違う声音で、アシカセが答える。

「後香の方だ」

「ああ、そういえば僧侶長がそんなことをいっていたような。全く、この『神殿』に部外者がずかずかと入り込んでくるなど、前代未聞だ…………」

 ブツブツと呟きながら両目を縫い合わせた男が去っていく。

 杖もつかずに不用心なことだ、とユキオはその背中を見送る。だが両目を縫い合わせた男は、むしろそうして壁やものにぶつかることを求めているようでもあった。

「アレイ様、ユキオ様、とりあえずお二人は僧侶長様の下へとご案内することになります」

「その僧侶長、という方がここの代表ですか?」

 問い返してから、しまったと思う。

 外部への社交性のなさとはすなわち、共通する了解の喪失だ。この『神殿』にとって僧侶長が当たり前の存在であるならば、「僧侶長とは誰か」なんて外部の価値観での質問をアシカセは想定してはいないだろう。何度も無駄に動揺させるのは、あまり好ましくない。

 しかし予想に反して、アシカセの言葉は滑らかだった。

「代表、というとまるであの方が偉いようですね。この『神殿』に住む人は皆平等です」

 揺らがない確信と重ねられてきた信仰。

 そうしたものが言葉を支えているのを感じる。

「しかし、僧侶長様は最も尊くておられる。私たちが語るべき真の言葉を知っておられる。そういう意味で、長とお呼びするに値します」

「なるほど、お会いできるのが楽しみです」

「その後はどちらへ案内すればよろしいでしょうか。お二方がこられた理由は『生成器の不調』というクレームでしたよね?」

「生成器に不具合があったという事実は確認されていません」

 ほとんど機械的に返事をしてから、ユキオは内心で溜め息を零した。

 それから事前に送られてきたご意見の内容を思い出す。

「『住居内に鎮痛剤があった。これは“万能生成器マルチプル”の不調によるものである』というのがご意見の内容でした」

 もちろん、そうご意見がくることと実際にそうであることの間には、大きな隔たりがあるけれど。

 それに、とユキオはありもしない眉毛を想像上で寄せる。

「正直にいうと、やや内容をつかみ切れていないところがあります。このご意見の意味がわからないというべきでしょうか」

 反論は通信で飛んできた。

『意味がわからないというのは誤りだ、ユキオ。文章の意味はわかるだろうが』

「あー、はい。厳密にはそうですね。文章の意味自体は明確です」

“万能生成器”はバイオスフィアⅢ型建築の設備の一つである。

 後香不動産が謳うところによれば、“万能生成器”はバイオスフィアⅢ型建築の住人が望む全てを作り出すことができる。内部を満たす大気も、食事などの生活必需品も、住民が望む嗜好品も、ありとあらゆるものを。

 ユキオ個人の意見をいうならば、それは少し誇大広告だ。“万能生成器”についても、多機能分子プリンターというその機能だけを表した素っ気ない名前の方が似合っていると思う。

 しかし、今はその辺りの詳細はあまり関係がない。

「意味はつかめるが、論理がわからないといった方が正確でしたね、すみません」

 頭の中でクレームとともに送られてきた画像を検索する。

 表面に『緊急用』と大きく表示された、鎮痛剤の染み込んだガーゼの箱だ。かつて市販されていた商品のデータを引っ張ってきて、そのまま出力したのだろう。

 クレームに書かれていたのは「この鎮痛剤が生成器から出てきた。だから生成器に不調がある」というだけの内容だった。

 生成器には鎮痛剤を作り出すだけのスペックが備わっている。だから生成器から鎮痛剤が出てきたことが、そのまま生成器の不調を意味するわけではない。クレームの文面の意味はつかめるが、その文章の論理が理解できない。

 その疑問に対し、アシカセは滑らかに頷いた。

「やはり外部の方が見ると、そう思われるのでしょうね」

「というと?」

「つまりですね、こういう建物にいると人は弱くなるものです。何もしないで生きていけ、食べるに困ることがありませんから。だから私たちは自らを律するために戴くものを考える必要がありました」

 彼らが何を選んだのかは、彼らを見れば瞭然だ。

「それが痛み、ですか」

 肯定の代わりのように、アシカセの足下で鎖が鳴った。

義務的に、そして少しの億劫さを覗かせてアシカセが語る。それは、なぜなぜと繰り返してばかりの子供に向ける態度によく似ていた。

「痛みとは精神にせよ、肉体にせよ、あるべきと信じる自己像と現実のズレが生み出すものです。つまりそれに多く堪えられる人は、尊くていらっしゃる。私たちは少しでも尊くあるために、痛みを積み上げねばならないのです」

「だからこの『神殿』に鎮痛剤があるはずがない、と」

「ですね。それがここにあるとしたら、生成器の不調に他ならないでしょう」

 道理で、とユキオは外部からは見えない視覚センサーを動かす。

 通りすがる人、視界に入る人が皆傷ついているはずだ。重石を背負っているもの、身体に針の刺さったもの、生傷から血を滴らせたもの。この『神殿』にいる人は誰もが怪我人で、そしてその痛みは自ら選び取ったものなのだろう。

「僧侶長様のお部屋はこの先、二階奥の一番大きな扉です。お話の間、私は他の僧侶たちとともに行へと励んでおります」

「ご丁寧にありがとうございます」

「あぁ、そうだ。この『神殿』では僧侶たちは銘々、好きに過ごしておりまして。会われる方がいるならば、私が先に居場所を調べておきましょう。そう──」

 アシカセの言葉は淀みなく、だからこそ、もしかするとこれを聞くために彼は台本を用意して、こうして案内をしたのかもしれないと思わせるには十分な違和感があった。

「──誰が後香へご意見を出したのですか、、、、、、、、、、、、、、、、?」

 外界とそれに属するものへの無興味は、バイオスフィアⅢ型建築に住むものの常だ。だが今は、そうした曇った色がアシカセの目から消えているように思えた。

「……あー」

 視線の意味、質問の意図を考えようとしたが、先にアレイが端的な返答をする。

『業務上、そうした情報は必要がない限りは開示できない』

「そういうものですか」

 がしゃりと鳴った枷から、うまく感情を読み取ることはできなかった。

 沈黙を気まずいと感じる機能は、まだこの『神殿』の人々にあるのだろうか。そう考えながら、それでも沈黙を埋めようとしてしまうのがユキオの性だ。

「偉いと尊いの違いはどこです?」

「偉いとは能動的に携わるものが増えることです。尊いとは受動的に携わるものが増えるということです」

「では偉いと尊いでは、どちらが偉いんでしょうね」

「言葉遊びに興じすぎると、本質を見失いますよ」

 返事は滑らかだった。つまりこれは彼の信仰に関わることなのだろう。

 階段を上りきったところで、アシカセがその手で先を指し示す。

「こちらで僧侶長様がお待ちです。どうぞお入り──」

 アシカセの言葉を、鐘の音がつんざいた。

 先程の広間にあった鐘が鳴ったのだろう。尋常ではない音量が視界に無数の警告を表示させ、全身の外装をビリビリと震わせる。ノイズキャンセラが自動的に起動したことを確認しながら、アレイに問いかける。

「アレイ、無事ですか?」

『……一瞬、音が入った。耳が痛い』

 その感想で済んだことは幸運だ。

 人体に有害な水準を遥かに超えた大音量によって、今まさにアシカセが崩れ落ちたところだった。その身体は痙攣し、涙や鼻水やよだれといった、人の顔から出せるあらゆる液体が零れている。

 これは聞こえていないな、と音声出力を文字に置き換え、顔に表示する。

「アシカセさん、これはトラブルではなく、『神殿』の日常という判断で大丈夫ですか?」

 返事は聞こえなかったが、彼の唇の動きは読み取れた。

「この時間のはずでは……しかし、鐘の音はいつものことで……どうぞ奥の部屋へ……」

 つまりこれもまた、『神殿』に住む人々が自らに課した痛みのうちの一つなのだろう。

 自分がこうした外的刺激に強い肉体を持っていてよかった。そう思いながら指示された通り奥へと歩き出し、ついでに問いかける。

「どう思います? この建物について」

『イカレてる』

 アレイならきっとそういうだろうと思っていた、そのままの言葉がきた。

『何をどうしたら、痛みを信奉しようなんて発想になるんだ。目標を掲げて堪えるならともかく、無意味に痛みを積み上げて偉いだ尊いだと、イカレてるだろ』

「言葉遣いが悪いですよ、アレイ」

『知るかよ』

「じゃあ、今回の件についてはどう思います? どうしてあなたのところにクレームが回ってきたんでしょうか」

『決まってるだろ。この「神殿」の誰かが音を上げたんだ。無駄な痛みを抱えているのが馬鹿らしくなって、こっそり鎮痛剤を作った。それが誰かに見つかったんだ』

「それだと後香にクレームを入れる動機がなくないですか?」

『鎮痛剤は見つかったが、犯人は見つけられなかったんだろ。だから生成器の不調ってことにして、後香不動産に調査をさせようとしている』

 サービスコーディネーターがその権限を使えば、確かに誰がいつどんなものを作り出したか、全てつまびらかにすることは容易だ。

「けど、それだと少し変ですね。その場合、後香への偽装ご意見なんて行う前に、『神殿』内で犯人捜しが行われているはずです」

『それがなんだ?』

「アシカセさんの質問は『生成器で鎮痛剤を作ったのは誰か』ではなく、『誰がご意見を送ったか』でしたよ」

『……あぁ、それはそうか』

 犯人捜しが行われたならば、それを主導した誰かがいたはずだ。

 誰がご意見を送ったのかがわからないなんてことは、起こり得ないだろう。

『じゃあ、鎮痛剤を作った僧侶自身がクレームを入れたんだ。自分で作った鎮痛剤が誰かにバレかけて、咄嗟に「生成器の不調だ」ということにした』

「理論は通りますが、心理は通りませんね」

『は?』

「そうする動機が見当たらない、という意味です」

 しばらくの間鳴り響いていた鐘はようやく終わりを迎えたらしい。

 まだ外装の震えは残っていたが、音は引いていった。

「バイオスフィアⅢ型建築の出入りは制限されているわけではありません。こうした住居に入り、結果としてこもっていることは、全て個人の意思によるものです」

『それは知っているが、だとしたらなんだ?』

「痛みを信奉することに嫌気が差したのなら、出ていけばいいということです。誰もその決断を掣肘する権利は持っていません」

『……内部で邪魔されているのかもしれないぞ。通信が監視されているとか』

 自分でも苦しい理屈だと理解しながら、それでも文句をつけてしまうのがアレイの数ある悪癖の一つだ。

「私たちがここにきて、調査をしているのにですか? そういう類いの場所なら、クレームすら出させはしないし、そうした問題は後香の別な部門に検知されるでしょう。それに先程から観察した限り、ここでは端末はかなり自由に扱えるようですし」

 廊下や建物に自由に触れる端末が設置されていることは確認済みだ。後香不動産の対応として出てきたアシカセも調査を拒否したり、何かを隠蔽したりする素振りはない。

『自分を落伍者と認めるのが嫌だったのかもしれない』

「鎮痛剤を使いながらこの『神殿』の僧侶という地位にしがみついていたけれど、誰かが鎮痛剤を見つけてしまった。なくはなさそうですが……まぁ、これなら心配は要りません」

『徹底的に調査をされて、真相をバラされたら困るのはその落伍者だもんな。最低でも公表されるのは避けたいはず』

「現時点でその人から接触がないこと自体が、暗にその説を否定している気もしますが」

 響き渡った鐘の音によって、僧侶たちは軒並み倒れている。しかし対策さえしておけば先程の音を堪えることはそれほど難しくはない。

 もしアレイのいう落伍者が実在するならば、後香不動産の人間に密かに接触するのに今これほどの好機はないだろう。しかし、廊下に響く足音はユキオのもの一つだけで、誰一人として現れることはなかった。

 ユキオはこつこつと頭部を指先で叩いた。

「バイオスフィアⅢ型建築の設備にエラーが出たという考えはナンセンスです。しかし、わざわざクレームを出してそこに何か隠した意図があるというのも、今のところは納得しがたい」

『それは、そうかもな』

「加えて私たちの仕事は事情を解き明かすことそのものではありません。あくまでも私たちの仕事は『クレームの解消』です。もし仮に誰かが助けを求めて、その偽装としてクレームを出しているのならば、その状況を解決する義務があります」

『じゃあお前はどう思っているんだ。今回の調査にどう結論を出す?』

「それは、まぁ」

 顔を持ち上げる。両開きの巨大な扉は、この先が『神殿』にとって重要な場所であることを明瞭に示していた。

「この先の人に話を聞いてから考えればいいと思いますよ」

   *

 扉を押し開ける。

 関節のアクチュエーターが微かに軋むような重さ。不便な出入り口を設けることも、ここに住む人々が自らに課した苦行のうちなのだろうか。

 人一人が通れる隙間を開いた瞬間、ぶんという重なり合った音が音声センサーに届いた。

 室内は薄暮を思わせるような暗さ。部屋の中央にはキングサイズのベッド。ベッドの周囲にはいくつもの点滴スタンドが並んでいる。何の薬剤を投与しているのかとその文字を見ようとしてから、光量の不足だけでは説明がつかない視界の悪さに気づいた。

 黒ずんだ、雲霞のようなものが室内を漂っている。それは開いた扉とユキオの方へも飛んできた。小さな粒が頭部表面にぶつかって、弾ける。指で触れると湿った音を立てた。

 蠅だ。

「ようこそ。どうぞこちらへ」

 ベッドの方から、合成とわかる平板な声がする。

 羽虫の群れをかき分けるようにして進むと、ベッドの様子が子細に見えてくる。そこにいるのは一人の老人だった。

 年齢は八十を下回らないだろう。その頭髪はほとんど抜け落ち、皺の寄った皮膚は垂れ下がっていた。身体には無数の管。点滴台に吊り下げられた薬剤を見遣れば、視覚補助システムがその目的を教えてくれる。抗生物質、造血剤、それに傷口の再生剤。だが、その中に痛みを抑える類いの薬は一切含まれていない。

「痛みと死が不可分なのは、不思議だと思わないかね。私たちは痛みだけを求めているのに、こうして薬で死を遠ざけてやらねばならない」

 言葉はしっかりとこちらに向けられていたが、老人が身を起こすことはなかったし、口を開くことすらなかった。その理由も一目でわかる。

 彼の両手足を、蛆が食んでいるからだ。

 ベッドの上に投げ出された四肢はほとんど形を成していない。輪郭は蛆と卵、そして今まさに羽化していく蠅によって曖昧
に溶け合っている。骨すらも露出するほどに食われた手足は、確かに薬剤の投与がなければ死んでいるほどの苦行だろう。

 痛みを抱えることがこの『神殿』での優越性を意味するのなら、なるほどこの人物がこの建物の代表者で間違いない。

「初めまして、僧侶長様。こちらは後香不動産お客様対応センターです」

 震えるように老人のまぶたが持ち上がり、思いのほかはっきりとした視線がユキオを捉えた。

「僧侶長などと、君たちに呼ばれるような身ではないよ。ウジムシとでも呼ぶといい」

 老人──ウジムシの言葉を代弁しているのは一台のロボットだった。ポールハンガーのような簡素なシルエットの機械は、点滴台に紛れるように立っている。

 脳波を読み取って患者に代わって話す医療器具だとユキオは見て取る。

「すまないね。今ではただ話すのも難しいものだから。こういうものに頼らないとならないんだよ」

「お気になさらず」

 実際、見ている間もウジムシの身体は痙攣し、食いしばられた口元からは血とよだれが垂れ落ちている。とても肉声ではしゃべれないというのは事実なのだろう。

 それにこういうロボットは好きだ。機械を人の形に寄せるのは精神の贅肉の為せる業というのがユキオの持論だった。

「えぇと、ではウジムシさん、ですね? ご意見の調査に伴いこのバイオスフィアⅢ型建築の内部を動き回る必要があります。その許可をいただければと」

「以前から思っていたのだが」

 僧侶長が思考で制御しているロボットが、独り言のように呟く。

「バイオスフィアⅢ型建築という名があるということは、Ⅱもどこかにあるのか?」

「……。アリゾナを訪れれば見ることができます」

「ほう、あるのか。では、Ⅰ型もやはりどこかに……」

『内部を動く許可をくれ。俺たちは雑談をしにここにきたわけではないんだ』

 アレイの言葉遣いは嫌いではないが、状況や礼儀というものがある。目の前に人がいなければ、額に手を当てていただろう。

 幸いにしてウジムシはアレイの態度を気にかけることなく、鷹揚に頷いた。

「好きにするとよかろう」

『後、ついでに質問も。今回のご意見についてお前はどう思っている?』

「理由を探求するのは君たちの仕事だ。私はそれを求めることはやめたのだから」

『お前はこのバイオスフィアの立ち上げ当初からいる、この「神殿」の中核メンバーだな?』

「信仰の深さに、月日がどれほど関係するものかね」

『なら、お前は今回の件をどう見ている?』

 後香不動産へのご意見は端末を通じて、本人から直接本社へと届いた。今日、こうしてユキオがここを訪れることは事前に通知していたが、誰がご意見を送ったかなどの詳細は、ウジムシも知らないことだ。

『どうして痛みを崇め奉るこの「神殿」で鎮痛剤が作られ、俺たちのところへご意見がやってくるような事態になった?』

 ウジムシの視線が宙を、あるいはそこを飛ぶ蠅を追うように漂う。

「私は確かにこの『神殿』を作り、信仰をそこに打ち立てた。それ以来、ひたすらに行を積み上げ、気がつけば僧侶長などと呼ばれるようになった」

『それだけの立場なら今回の事態がどうして起こったかくらい、想像がつくんじゃないか?』

「ならば逆に問うが、君、信仰の最大の敵とはなんだね?」

 唐突な問いかけに、通信の向こう側でアレイが面食らう気配がした。

 身じろぎをする音が通信に入って、数秒後に吐き捨てるような返事がくる。

『知るかよ』

 ユキオは閃いた顔の絵文字を表示した。

「そうですね。誘惑とか?」

「どちらも答えとしては不適格だ。私が今回の件について知っていることの全ては、先程の質問に君たちが答えられたら教えるとしよう」

「……それは何かを知っているという意味で取っても?」

「構わないよ」

 アレイがユキオにだけ届くように舌打ちを送ってくる。

『何か知ってるんなら、無理矢理吐かせよう』

『クレーム対応要員なだけの私たちにそんな権限はありませんよ』

 そうとだけ通信で答え、踵を返した。

 重さに辟易としながら扉に手をかけたところで、背後から声がかかる。

「ところで、君。君たちのところに意見を送ったのは誰だったかな、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、?」

 苦痛に呻く肉体と、人間性の欠けた機械。どちらも感情を読み取るには不適で、どんな動機がウジムシにその質問をさせたのかはわからなかった。

『それ、聞くの流行ってるのか?』

「ということは他の僧侶も尋ねたのかね」

「答えは同じです。業務上、必要のない情報はお答えできません」

「そうか、それがいい。彼らにそれを伝えれば、きっとよくないことがあるだろう」

 まるで予言のような口ぶりだ、と思う。この部屋から一歩も出られないだろう僧侶長に、一体何が見えているのだろうか。

 聞いたところで詳細を教えてくれる気はしないが。

 ユキオは肩ごとぶつかるようにして扉を開き、廊下へと出た。その一動作だけで多くの蠅が潰れ、死んでいった。

   *

『どう思う?』

「そうですね。私の見たところ、生成器に故障はないです」

 廊下にあぐらをかいていたユキオは、答えながら伸びをした。凝るはずもない機械の関節が、腰の辺りで唸りを上げる気がする。

 内部を勝手に動き回る許可をもらったので、改めて調査を行っていたところである。アシカセはまだ合流していなかった。復調にはまだ時間がかかるだろうし、元々案内は住人の心情に配慮した儀礼的なものに過ぎず、必要なものの場所は後香のデータベースを当たればわかる。

 そして、バイオスフィアⅢ型建築に不具合がないのも、やはり当然の話だった。

『そんなことは知っている。問題は、だとすればどういうことかだろ』

『神殿』の廊下の隅、壁の端末へと接続していたユキオは、視線を宙にさまよわせる。

「とりあえず、意図せずして鎮痛剤が出たという考えはないですね。鎮痛剤は意図的に作られた。元々、生成器の故障というのは薄い線だとは思っていましたが」

“万能生成器”はバイオスフィアⅢ型建築の内部の循環の大きな部分を担っている。必然的にこれの故障はクレーム程度では済まない致命的な問題になってしまう。

『どいつもこいつもご意見を送ったのが誰か知りたがっている。そのことと、鎮痛剤が意図的に作製されたという事実は関係していると思うか?』

「例えばアレイがいっていたように、鎮痛剤を作った誰かが、その事実を隠蔽するためにご意見を送ってきたのだとします。そうすると僧侶たちがその誰かを捜しているという事実は理解しやすくなりますね。戒律を破った誰かを捜しているんですから」

『俺たちがご意見に対応しようとしているのにか?』

「外部の存在を信用せず、内部だけで対応しようとするのはこうした建築内に住む人の標準的な精神反応ですよ。ご意見を送ってきた人も、傷を自分で治そうとしていたわけですし」

 いいながら、クレームに付属していた商品データの画像を脳内に表示する。『緊急用』と書かれたそのパッケージ。

 ほとんど空っぽの頭に、微かな刺激が走った。

「……ん」

 ユキオは呟く。

『どうした?』

「いや、何かが閃きかけたような──」

 だが、それを確かなものとする前に、風を切る音がセンサーに届いた。

 同時にユキオの左腕へと金属製の鞭が絡みつく。視覚の脅威度判定システムがその鞭の危険性を伝えてくるよりも前に、記憶が危険性を叫ぶ。

「──まずい」

 直後、鞭を伝って流れた高圧電流がユキオの身体を焼いた。

   *

 バイオスフィアⅢ型建築には処理炉が必ず備えられている。

 生成器が循環の始まりの端ならば、処理炉は終わりの端だ。

 そこでは内部の物質が分解され、資源へと変換される。やがてまた生成器によって、人の生存に役立つ形へと加工できるように。

 その処理炉の手前、一時的にあらゆる不要物資がプールされるゴミ捨て場にユキオの身体は転がっていた。五体は鞭によって与えられた電流で機能を停止しており、後はただ処理炉の稼働を待つだけ。その身体は完全に分解され、『建物内の総物質量の増加』という一つのアラートとして処理される。

「……と、まぁ、そういう考えだったのでしょうね」

 機能停止を偽装していたユキオは呟きながら身を起こした。

「あー、びっくりした」

 頭部に光が灯り、身体の各所で微かな駆動音が始まる。この肉体の便利なところの一つはこうして生存を示すあらゆる兆候を任意に切れることで、もう一つはこうしたゴミ捨て場の中では嗅覚センサーを任意に切れることだ。

「しかしアシカセさんたちも思い切ったことをしましたね。私を壊そうとするだなんて」

 鞭が身体に巻き付き、ユキオが電流によって倒れたように自らを偽装した後、その身体を持ち上げたのはアシカセと他二名の僧侶であった。

 彼らは協力し合ってユキオの身体を持ち上げると、広間に設けられた大きなダストシュートへと放り込んだのだった。

「いやー、電撃対策を積んだ身体でよかった……おっと、アレイ?」

 虚空へと問いかけるが、返ってきたのはノイズもない沈黙だけだった。

 念のため身体の各部にチェックを走らせる。問題なし。

「つまり圏外か。困ったな、内部構造をいじって出してもらおうと思ったのに」

 処理炉の稼働周期がどうなっているかはわからないが、もし仮に処理が始まってしまえばさすがにどうしようもない。熱と圧力とその他諸々で、微粒子に分解されるだけだ。

「出口を探さなくちゃだけど暗いし広いし、アクティブセンサーでどうにかなればいいけど。おーい」

 と叫んでみたのは気分の問題だ。何かを期待しての行為ではなかった。

 だが、返事があった。

「あら、どなたかいらっしゃるの?」

 ぎょっとする。

 慌てて声のした方へとゴミを蹴って進めば、錆びた鉄の柱と朽ちかけたベッドの合間に、一人の女性がいた。

 壮年を超えて老境に差し掛かろうかという歳。痩せこけた手足はあらぬ方向へとねじ曲がり、その顔色は今にも死んでしまいそうなくらいに黒ずんでいる。白く濁った目が、ユキオの方を見て丸く開かれた。

「まあ、変わったお客様。どうしてこんな場所に?」

「……えーと、そうですね。意味あるものを無意味にする。大量生産と大量消費に警鐘を鳴らす社会派アートごっこです」

「うふふ。なんだか楽しそうね」

 ユキオの適当な言葉に、老女は無邪気な仕草で笑った。

 駆け寄ろうかと思ってから、やめる。どうして彼女が処理炉にいるのかわからない。文化圏における位置づけがわからない以上、心配したり、助けようとしたりという行為が侮辱に当たってしまう可能性は、常に頭に入れておかなければならない。

 代わりにゆっくりと歩み寄って、感情を乗せないように静かに問いかけた。

「お嬢さんはどうしてここにいるんですか?」

「寿命よ。環境が安定していて、医療が発展しても、人はいつかは死んでしまうもの。私はもう限界で、だからここにきたの」

「つまり、自分の意思でここにいるということでいいんですか?」

「心配してくれているのね、ありがとう。でも大丈夫。この『神殿』の僧侶たちは、誰もが最後にはここに足を運ぶのよ」

 処理炉で行われる工程を一通り思い出す。

 ユキオは何か絵文字を表示しようとして、やっぱりやめておくことにした。

「痛いですよ。多分、死ぬほど」

「ええ、だからここにいるんだもの」

 原形も残さず、実質的な無に還ることが、アレイみたいにこの『神殿』をイカレてると批判する理由になるだろうか。僧侶たちが並んで処理炉に身を投げていく光景を想像する。

 少しだけ考えて、その無意味さに肩を竦めた。

 脱出経路を聞き出すよりも前にさらに質問を重ねたのは、きっとアレイと通信がつながっていないからだ。いつもよりも少し無駄口が増えている自分を自覚する。

「質問を一ついいですか?」

「おばあさんに答えられることならなんでもどうぞ」

「痛みを信仰することが堕落を避けて生きる術ならば、死に際にまで痛みを求める意味はなんでしょう。あなたはもう生ききって、痛みを味わい尽くし、堕落する余地もないのでは?」

「あなた、外部の人よね? 随分優しい質問をするのね」

 人、という表現にユキオは少し引っかかる。

 しかし老女の白濁した目には、ユキオも人のように見えているのかもしれない。強いて否定することもなく、ユキオはただ頷いた。

「その質問への答えはすごくシンプルなの。そうじゃないからよ。そうじゃない、そうじゃないの」

 老女の咳が暗闇に響いて、想像よりもずっと処理炉が広いのを反響から感じる。

「痛みなんて、その人だけの経験だわ。だから逃げることも、目を逸らすことも、難しくないの。痛みは真理だと私たちはみんな知っているのに、その事実と向き合い続けるのはすごく大変。痛みと本当にきちんと向き合うことができた人は、今では僧侶長と呼ばれているくらいよ」

「あなたも……向き合えなかったんですか?」

 老女が頷く。

「ええ、そうよ。逃げたいと思っていたし、逃げてきた」

「……」

「だからこうしてここにいるの。もう寿命もなくて、逃げることもできなくて、それでようやく初めて私は痛みと真に向き合えている。痛みと、信仰と、人生と、私自身に」

「それで酷い死に方を迎えるとしても、ですか」

「うふふ、だって私、まだ生きているもの。生きている間は考えて、祈ることができるのよ」

「怖くはないんですか?」

「怖いわ。今だって泣き出してしまいそう。でも、だから、私は初めて生きているといえるのかも。死んでいった先輩たちがみんなここにきたのも、きっとこうして人生の最後に、真に痛みと向き合う時間が欲しかったのかもしれないわね」

 微かな振動が足下から伝わってくる。

 処理炉の稼働が近いのだろうか。

「おっと、じゃあ、そろそろ私は出口を探します」

「確かにあんまり引き留めちゃ悪いわね。私たちが下りてくるための階段が、ここからずっと右に行ったところにあるわ。出るならそこからよ」

「今更ですけど、私がどうして落ちてきたのかとか、誰なのかとか聞かないんですね」

「そうねぇ、地下に捨てられた辺り、あなたはもしかすると僧侶たちを困らせるような存在なのかもね」

 そういってから、老女は口元を押さえて慎ましく笑った。

「けれど、なら、なおさらその苦痛を抱えないと。私たちはそう信じたのだから」

 会話はそれで終わりだった。

 そろそろアレイも心配している頃だろう。ユキオは一礼だけをして、老女が指し示した方へと歩き出す。死んでいった僧侶が誰も選ばなかった道を辿り、地上を目指す。

 背後の暗闇からは、老女の独り言が長く聞こえていた。

「あぁ……ふふ、恐ろしい……怖いわね……だからこそ、真理に近づいているわ……」

   *

『ちっ。折角、備品の遺失届を書いていたっていうのに』

 というのが通信が復帰してすぐ、アレイの第一声だった。

 セーラー服の裾についていた得体の知れない汚れを払いながら、怒っている絵文字を十個単位で送りつけてやる。

「もう少し心配してくれてもバチは当たらないですよ」

『そもそも電撃対策をしてある癖に、なんでわざわざ倒れたフリなんてしたんだ』

「そうすれば何かわかるかなって思ったからです。ご意見の原因究明にも、解消にも、あの時点では情報が足りていませんでしたから」

 ユキオが今いるのは『神殿』の片隅にある倉庫である。不要物を片端から押し込めているらしい小さな部屋は埃っぽく、その分だけ人がくることもないだろう。

 処理炉から出てきた後、人目につかないようここに隠れ、改めてアレイと方針を練り直しているのだった。

『そうか。まぁ、無駄骨だったな。お前は単にゴミ箱に捨てられただけだ』

「いえ、あれで結構、色んなことがわかりましたよ」

 捨てられたかいがあったと思えるくらいには。

『例えば?』

「例えば私たちを排除しようとしているのは『神殿』の総意……まぁ、そう言い切れずとも大多数の意見であることとかですね」

『何を根拠にそんなことを?』

「私を運ぶ時、アシカセさんたちは身を隠そうともせず、広間のダストシュートから捨てたからです。一番人目につく場所を堂々と通ったんですよ」

『目撃者を気にしていない。誰に見られても咎められるとは思っていなかったってことか』

「それが全員かはわかりませんけどね。少なくともウジムシさんはあの場から動けないのだから、彼に見られることは想定していないわけですし」

 だが逆にいうと、この建物にいる全ての僧侶がユキオに敵対してもおかしくないということではある。その脅威を見積もるように、アレイは数秒の沈黙を計った。

『……帰るか? こっちに手を出してきた以上、帰って厳重注意を送りつけてやることもできるが』

「それだとアレイの評価に響くでしょう。私たちはクレームの解消にきたんですから、原因を解き明かして報告書を作らないと」

『それはお前が気にすることじゃない』

「私はそのための道具ですよ」

『道具なら俺の意見に従ったらどうだ? いったところで無駄なんだろうが』

 今度ははっきりと、普段よりも不機嫌な声音だった。

「後、わかったことといえば、そうですね」

 さっき地下で会い、もういないかもしれない老女のことを思い出す。

「どうして僧侶たちが私を襲ったのか、それに、ウジムシさんの質問の答えも」

『…………は?』

「多分、ですけどね」

 閃きというほどのものは何もなかった。

 ただそこには自然な理解があっただけだ。接触面から熱が伝わりやがて熱平衡が訪れるように、『痛みの神殿』へと慣れゆく思考が、先程までの不理解をシームレスに理解へと変えていた。

 きっと、もう答えはわかっている。

『おい、名探偵ぶってないで教えろ。何がどうなっているんだ』

「これから証拠を拾いにいくので、ちょっと待ってください。それより、私がゴミにまみれている間、アレイも何か仕事をしていてくれたんですよね?」

 これ見よがしの溜め息が通信に吹き込まれる。

『生成器の履歴を確認した。遡るのは手間だったが、どうやらあの鎮痛剤、これまでにも何回か作られていたみたいだな』

「当てていいですか。全く同じ鎮痛剤が、定期的に作られていたでしょう。一年おきに、十年くらいかな?」

『そういう話し方、嫌われるぞ』

「アレイが私を嫌うことはないでしょう?」

『俺はお前のことが嫌いだ。後、十年ではないな。六年間、おおよそ定期的に六回生成されていた』

「ふぅん。つまり、思ったよりも早かったんですね」

 処理炉に投入された質量を調べればユキオが破壊されていないことはわかってしまう。アシカセたちがわざわざそんなことをするとは思えないが、一応、早く動くに越したことはないだろう。ユキオはアレイへの説明よりも、移動を優先しようと判断する。

 扉を押し開けようとして、止まった。

 センサーが廊下の向こうを捉える。咄嗟にユキオは扉を細く開け、その隙間から廊下を覗き込んだ。

 そこでアシカセが引きずられていた。

「お許しください……私は、今日罪を犯しました……そのあがないを、血で、痛みで、どうか……」

 解体途中の野生動物を連想する。アシカセの身体はあちこちに切れ込みが入り、まるで魚の開きのようだった。開きと違う点は、アシカセはまだ干からびておらず、その全身から血が滴っていることだろうか。

 アシカセの身体を引っ張っているのはウジムシの部屋で見た簡素なロボットだ。ナメクジの這ったような、長い血の跡を残しながらその姿は廊下を曲がって見えなくなる。

 端的な感想をアレイが漏らした。

『独善的だな。勝手に人を襲って、勝手に罪を償った気でいやがる』

「独善的ですが、彼らの教義と信条からするとそれが正しいことなんでしょう。このバイオスフィアの中で、と言い換えてもいいですけど」

 ユキオを襲ったのは悪であり、そしてその悪に対して自らが報いを与える。ある意味ではとても誠実な仕組みだ。

 見ている人もいなくなった廊下へ、改めて出る。

『それをイカレてるって表現するんだろうが。身内だけの理屈を抱えて、世間的な正しさとの均衡を失っていることを』

 いくつかアレイにいうべきことを思いついてから、その全ての優先順位を下げた。今は仕事中で、他にもっと話すべきことがある。

「歩きながら、今回の件について整理しましょうか」

 アクチュエーターを静音モードで動かしながら、ユキオは廊下を歩く。

「例えば……そう、例えば。私がこの『神殿』に住む僧侶で、しかし痛みを抱え続けるのが辛くなったのなら、まず考えるのは出ていくことです」

 ついていけなくなった環境から距離を取る。

 適切で端的な解決策だろう。

「しかし出ていかない判断を下す可能性も十分にあります。志したことを諦め、自身に敗北者の烙印を押すのは辛いですからね」

『だから鎮痛剤を作ったって話なら、俺が最初にしなかったか?』

「ですがそうなっても、私は鎮痛剤を作りませんよ。少なくとも、あんな形のものは」

 生成器から作られたと報告のあった鎮痛剤、その画像を検索し、アレイへと送る。かつて存在していた商品のパッケージ。大きく『緊急用』と印字された、見るからに物々しいそのデザイン。

 引っかかっていたのは、そこだ。

「あれじゃ見るからに医薬品です。痛みを避けようとしていることが丸わかりです」

『でも実際に作られたのはアレなんだろ?』

「だから、それが変なんですよ。この手の家に住む人の外部への無関心さは、内部への過敏さの裏返しです。この『神殿』に住む人が、他の僧侶の目を意識しないことはあり得ません。それも戒律を破ろうとしている時に」

 話しながら、同時に思考を別で動かす。

 後香不動産のデータベースから見取り図を引っ張ってきて、脳内に展開。想像する。なるべく人目が少なく、しかし頻繁に出入りしても自然で、ものの多い場所。

 図書室──これだろうか。

 外しても問題があるわけではないので、当座の目的地をそこに据えた。

「生成器はおよそあらゆるものを作り出せる機械です。既存の商品を流用するにしても、パッケージがもっと鎮痛剤だとわかりづらいものはいくらでもあります。それに生成器なら中身だけを作ったり、パッケージを別なものに変えて作ることだって可能です」

『それが何だっていうんだ』

「今回の件はそもそも『鎮痛剤が落ちていた』とバレたことがきっかけです。しかしそのきっかけを避けること自体は容易で、今回の犯人──便宜的に犯人と呼びますが──は意図的にそうしなかったということですよ」

 図書室に誰もいないのは幸運だった。それに、扉が音を立てずに開けられる程度には軽いものだったことも。

 扉を押し開けて、中へと滑り込む。

『だからどういうことだ?』

「だから、つまりですね……」

 アクティブセンサーを起動する。可視光線で作られる景色と重なるように、この部屋を訪れた人間の痕跡が浮かび上がってくる。

 ただの利用客とおぼしきものは次々に除外。見るべきはある程度の頻度でここを訪れており、他人が近寄った形跡が少なく、触れたことを隠そうとする意図があるところだ。程なくしてその条件に合致する場所が、書棚の間で見つかった。

 一冊の本を手に取って、癖に従って開く。

 本のページの隙間に挟まれた、厚手の紙片がはらりと落ちてきた。ぱっと見ただけではそれは単なる紙切れのようにしか見えないだろう。ユキオは拾い上げると、指先でつまんで簡易な成分分析を行う。

 結果は最初から予想できていたので、そのままアレイに転送した。

「こういうことです」

 薬品を染み込ませた、経口摂取する鎮痛剤だった。

   *     

「恐らく、この『神殿』では鎮痛剤を使用することが常態化していたのでしょう。多くの僧侶はそれを使い、お互いにその事実を察しながらも、暗黙のうちに見過ごしあっていた」

『なんでそんなことがいえる?』

「そう考えなければ心理的なつじつまが合わないからです。多くの人が鎮痛剤を作っていた事実は、生成器の履歴を辿ればわかるはず。私たちの下にクレームとして届いたあの箱ではなく、先程の紙片のようにもっと巧妙に隠されたものです。ただこれは結構膨大な作業になるので、一旦置いておきましょうか」

『一応、裏で手を動かしておく。鎮痛成分を持つくらいのファジーな条件だと、厳密な回答は得られないと思うがな』

「で、見過ごしあっていたという事実の証明ですが、それは今回のクレームが初めてだという事実からわかります。これまで五回、あるべきクレームがきていません」

『五回?』

「例の『緊急用』と印字された鎮痛ガーゼ。多分、あれは誰かが見つけさせるために作ったものです。見つけさせて、後香不動産にクレームを送らせるために」

『……どうしてそんなことを?』

「その説明は後で、もっときちんと知っている人から聞きましょう。私も完全にわかっているとはいえませんし。しかしあんな風に見るからに鎮痛剤とわかるものをわざわざ作る理由は、それを見つけて欲しいからだと思う方が自然ですよね」

『けど今回のクレームが初めてだったんだろうが』

「だからそれが、僧侶たちが鎮痛剤を使っていて、見逃しあっていたことの証明なんです。例えばアレイ。あなたがこの『神殿』の僧侶で、鎮痛剤を拾ったとしたらどうします?」

『当然、何らかの罰を下そうとする。誰のものかわからなければ、その調査からだな』

「では、あなたも鎮痛剤を密かに使っていたら?」

『……』

「そういうことです。自分も鎮痛剤を使っていたなら、それを罰しようだなんて思うはずがありません。自らの罪もまた明らかになりかねませんからね。まして後香にクレームだなんて、もってのほかです。後香不動産のお客様対応は徹底をモットーとしますから」

『なるほど。お前が殺されそうになるわけだ。調査を続けていかれたら困るのは、この「神殿」の全員だったわけか』

「ほとんど全員、ですね。誰かが鎮痛剤を作って、六度誰かに見つけさせた。五回は見過ごされて、六回目に遂にクレームがきた」

『そんなことをわざわざ、どうして。クレームを送らせることが目的だっていうなら、俺たちをここに呼び寄せて何をさせようとしている』

「目的はもう終わったんだと思いますけど……まぁ、その辺りのことはご本人から直接聞きましょう」

 ちょうど、今日二回目の鐘の音が響き終え、その振動が消えていくところだった。

 ユキオは梁から飛び降り、扉の前に立つ。両開きの大きな扉は、その先に僧侶長ウジムシを隠している。今ならば大半の僧侶は泡を吹いて倒れているだろうと、どうにか扉を開き、中へと入った。

 僧侶長ウジムシは、まるでわかっていたようにこちらを静かに見た。

 彼の傍に控えたロボットがそのアイカメラを点滅させる。

「やあ、後香の方。質問の答えはわかったかな?」

 ユキオはベッドへと歩み寄りながら、答える。

「信仰の最大の敵は自分。自分自身。そうですね?」

 常温の微笑みがウジムシの顔に広がる。

「その通り。世の真理に誤りはない。それは過去から未来に亘って不変で唯一のものだ。けれどそれを見る人に誤りはある」

「鎮痛剤を生成し、誰かに見つかるように置いたのはあなたです、ウジムシさん」

 返事はあまりにも滑らかで、ユキオはまるで台本に沿ってしゃべらされているような気持ちにさせられる。

「君たちは正しく答えた。だから私も正しく答えよう。その通りだ。私が作った鎮痛剤が、誰かに見つかって、君たちの下にご意見として届いた」

 舌打ちがユキオの脳裏に届いた。

『面倒なことしてくれたな。わざわざ鎮痛剤を作って、誰かに見つかるように配置した? そんなことをした理由は何だ?』

 質問を聞いて、ウジムシは数度瞬きをした。そのまぶたに止まっていた蠅が飛び立つ。

「私がこの『神殿』に入って何十年が過ぎたか。バイオスフィアⅢ型建築は人にとっては祝福だが、同時に呪いだ。恒久的な生存を保証された中で、口を開けて餌を待つだけの雛へと堕さないために、私は痛みを真理とすることに決めた。それがこの建物を、ただの家から、『神殿』へと変えた」

『痛みを崇拝するだなんて、正気とは思えないがな』

「君の理解を得ようとは思わない。誰に理解をされずとも、真理は変わらない。幸いにして、私の思想に同意をしてくれる人も多くいたからね」

「その僧侶たちの中には鎮痛剤を常用する人も多いですが、それについてはどうお考えですか?」

「私は彼らと変わらない立場の僧侶で、彼らを罰するつもりはないよ。弱さもまた人の一側面だ。痛みを得て、崇めようという意思がある限り、彼らは僧侶に違いない」

『わからないな。お前はただの僧侶で、鎮痛剤を用いた連中を罰する気もないという。ならどうしてこんな企みをした?』

 しばらくの間、室内には蠅の羽音だけが満ちていた。

 ウジムシの血と肉、それを食う蛆、そこから育つ蠅。注がれる薬剤。それらが混じり合った臭気はどこか甘く、ありもしない胃から吐き気がこみ上げるようだ。

「私がここにきて、どれほど経ったか。私ももう長くはない。私はただの僧侶に過ぎないが、そんな私を僧侶長などと呼んでくれる人もいる。程なくして、私は私の後を継ぐ、この『神殿』の信仰の礎を担う人を見つけねばならないだろう」

『それと今回の欺瞞にどんな関係がある?』

「わからないかね。この『神殿』では鎮痛剤を見かけても、誰もが見なかったことにする。鎮痛剤を実際には使っていないものであっても、だ。それは痛みこそが真実だという信仰に対する疑念、いつかは自分も鎮痛剤を使うかもしれないという日頃の想像が為せるものだろう」

 五回、同じことをウジムシは繰り返したのだろう。鎮痛剤が置かれ、しかしそれを誰もが見なかったことにした。

 しかし、とユキオは言葉を先回りする。

「今回は後香にご意見が届きました。『生成器の不調によって鎮痛剤が作られた』と」

「その通り。それを私が、どれほど待ち望んだか、わかるかね」

 ロボットの作る平板な声音にすら、ウジムシの秘める熱がじわりと滲んだ気がした。

「それは完全な信仰心が為せる業だ。痛みこそが真理であると一片たりとも疑わない心。鎮痛剤を自らが使うとも、誰かが使うとも想像することすらない、無垢なる信心。信仰の最大の敵とは己自身であり、そしてその僧侶は──ご意見を送った誰かは既にそれを克服している」

 想像する。

 この『神殿』の僧侶の誰かが、どこかで──例えばシャワー室でものを取り落としたりして、偶然にも鎮痛剤を見つける。

 その僧侶はウジムシの思惑なんて知らず、絶え間ない痛みと死の恐怖に苛まれながら、しかし即座に『これは生成器の不調によって作られたものだ』と判断する。

 なぜならばその僧侶は完全なる信仰の体現者であり、自らが鎮痛剤を用いようと思ったこともなければ、誰かが鎮痛剤を用いたと想像することもないからだ。真理である痛みを受け入れないという選択すら考えることのない、その純粋さでもって後香不動産へとご意見を送った。

 そしてその誰かを、目の前の老人は探していたのだ。

「最初から問いかけても君たちは答えてくれなかった。だが、今ならばわかるだろう。君たちにご意見を送ったその誰かが、どれだけ価値のある人材なのか」

 ロボットが言葉を途切れさせる。

 代わりに、ウジムシがその口を開いた。

 よだれと血を吐き捨て、蛆に身を食まれる痛みに奥歯を食いしばり、しかしそれでも自らの口で問わねばという強い使命感が彼の口を動かした。

 蠅の羽音にすら紛れてしまう、かすれた声がした。

「──どうか、その僧侶の名を教えてくれないか?」

 通信越しにアレイが硬質な声を発する。

『教える必要はないぞ、ユキオ。事情は全てわかった。今回のご意見は俺らの対応する内容じゃない。内容をまとめて本部に送って、それで仕事はおしまいだ』

 ご意見を送ってきた人の名を教えるのが、仕事に含まれていないというのは間違いのない事実だ。ユキオたちの役割はご意見への対応と、後香不動産の完全性の証明であり、それはもう終わった。今回、バイオスフィアⅢ型建築に不具合は発生していない。

 そのことはウジムシも承知しているだろう。だが、それでも彼は言いつのる。

「これはこの『神殿』が、私亡き後も長く続いていけるか、その分水嶺なのだ」

『イカレ野郎どもがどうなろうと、知ったことか。それで滅びるなら、滅びればいい』

「どうか、私の信仰が誰かに確かに伝わったのだと、そう教えてくれ」

『痛みを信奉するような考え、まともじゃない。さっさと帰るぞ』

 ユキオは二つの選択を天秤にかけ、考え、悩み、そして、答えを出した。

   *

『神殿』から出れば既に外は夕暮れだった。

 沈みゆく太陽が空を赤色に染め上げていて、しかしその色は人間の血の色よりもずっと澄んでいる。自分の影を追いかけるようにユキオは道を行く。

 その足は、程なくして止まった。

 今日一日、通信越しに聞いていた声が、今は肉声で届いた。

「ユキオ」

 そこにアレイが立っていた。

「どうしてあんなことをした」

 何度見ても、スーツが似合わない少年だと思う。堅苦しい服装は、十四歳の彼をかえって幼く見せている。

 少し長すぎるくらいの髪の毛と、よく焼けた肌。細い未発達な手足と、それを覆うぶかぶかのスーツ。ちぐはぐな印象がいつも彼にはつきまとっていて、それに違わぬ、少しかすれた声をアレイは吐き出す。

「どうして、ご意見を送ってきた人の名前をウジムシに教えた」

 ユキオは結局、ウジムシに情報を伝えた。彼が求めていた名前を。

 笑顔タグがつけられている絵文字から適当なものを顔に表示しつつ、軽い口調で答える。

「逆に聞きますが、どうして教えてはいけないんですか? サービスコーディネーターには多くの権限が与えられていて、あの程度は越権には含まれませんよ」

「だが、俺たちの仕事でもない。あんなイカレた宗教の持続に、俺たちが手を貸す理由なんてないだろう」

「イカレている。身内の理屈を重んじて、世間的な正しさとの均衡を失っていることを、アレイはそう表現していましたっけ」

「ああ、あんな自分の身体を傷つけ続けるようなイカレ宗教、潰れちまえばいいんだ」

「そういいたくなる気持ちもわかりますけど、じゃあ──」

 ユキオは振り返る。

 辺り一帯をぐるりと見渡す。

 そこに広がっているのは、無数のバイオスフィアⅢ型建築だ。白い豆腐のような構造物は大小様々に連なり、視界の果てまで広がっている。その光景がどこまでも広がっていることを、ユキオは知っている。

 どこまでも、地球を一周するまで。

「──世間、、ってどこです?」

 世界から人が消えて、随分と経つ。

 前世紀から作られ続けたバイオスフィアⅢ型建築は、既に地球上の全ての人類を収容できるだけの数になった。そして、人々はその中へと吸い込まれていった。

 誰に強制されたわけでも、何の陰謀があったわけでもない。単に恒久的な生活を保証するその建物が、人にとって限りなく魅力的だっただけだ。出ていく自由は今だって保証されているのに、誰もバイオスフィアⅢ型建築が提供する望むままの環境からは出てこなくなった。

 今では主義主張などで入居を拒む外界主義者アウトサイダーが僅かにいるばかりで、それはかつて世界にいた人間の数からすればゼロといっていいほどの少なさだ。

「それは……ひっ」

 反論をしかけたアレイが、声を引きつらせた。

 その視線が上へと向けられる。彼を怯えさせたのは頭上を通り過ぎていった鳥だった。鳥の落とした些細な影。その何かが頭上にあるという感覚だけですら、アレイが恐怖を覚えるには十分すぎたのだろう。

 バイオスフィアⅢ型建築の中には入れないほどの極端な閉所恐怖症。

 先天的に、アレイが外の世界で暮らすことは定められていたといっていい。

「きっと外の世界に人がたくさんいた頃は、正気というものが定義できたんでしょう。最大多数の人の社会で、最大多数の合意を得られる意識の形態として」

 ユキオは首を振る。

「けど、もうそんなものはなくなってしまったんです。人は全て望んだ環境を恒久的に得られるようになり、正気の定義は儚くなりました。人々は各々の正気を持てるようになり、だからあの『神殿』の人たちだってきっと正気なんですよ」

 どれだけ歪んで見えようと、彼らは同意の上であの中にいて、同じ理想を見ている。

 あるいは、と頼りなく立つアレイを見遣る。

 地球、、に取り残されてしまった少年を。

バイオスフィアⅠ、、、、、、、、にいるからって正気だといえる時代は、過ぎ去ったんですよ」

「……それでも」

 食いしばった歯の隙間から、アレイが言葉を漏らす。

「それでもあるはずなんだ。人があんな箱の中にこもっていちゃいけない理由が。みんなが狂ってるっていう事実が。だから、みんなが外に出てこなくちゃいけないっていう証明が」

 そんな風にアレイが主張する理由を想像しようとして、やめた。

 かつて外界主義者だったアレイの両親が、最後には主義を捨てバイオスフィアⅢ型建築に入ったこと。幼いアレイはその閉所恐怖症のために外へと取り残されたこと。以来、アレイは外界主義者になじむこともできないまま、ただ一人生きてきたこと。

 そうしたいくつかの事実を組み合わせればそれらしい理由は作れそうだが、きっとそれはこじつけにしかならないだろう。

 確かなのは、今ではアレイが唯一の後香不動産のサービスコーディネーターであるという、それだけだった。

「私はそんなもの、ないと思いますよ」

 本心から、そう告げる。

 技術の進歩は人に最大限の幸福を保証できるほどになってしまって、正気も狂気も、今では同じ箱にしまわれたおもちゃでしかない。

「まぁ、アレイが探すというのなら否定はしませんが」

 けれど、もしかすると、どこかにあるのかもしれない。

 この地上に作られた無数のバイオスフィアⅢ型建築の、そのどれかの中には。彼らが完全に狂っており、人はやはり外に出て生きていかねばならないという証拠が。

 ないと知りながら、あって欲しいと願ってしまう。

 自分のためではなく、アレイのために。

 だからユキオはいつも通りに笑顔の絵文字を浮かべて、アレイに近寄った。

「じゃあ、報告書をまとめながら、次の仕事の話でもしましょうか」

 次に行くバイオスフィアⅢ型建築が、とびきり変な場所であればいいと思いながら。

(第2話へ続く)

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この続きは書籍版でお楽しみください。

バイオスフィアⅢ型建築、それは内部で資源とエネルギーの全てが完結した、住民に恒久的な生活と幸福を約束する、新時代の住居。その浸透によって人類の在り方が大きく様変わりした未来、バイオスフィアを管理する後香不動産の社員として働くアレイとユキオは住民からのクレーム対応により、独自に奇妙な発達を遂げた家々の問題に向き合っていくことになる――ポスト・ステイホームの極北を描いた新時代のエンタメSF。

第一話「責問神殿」 
第二話「名前のないコロニー」
第三話「翼ある子らの揺り籠」
第四話「カイロ私邸」
第五話「後香不動産」


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