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5月1日発売『無限角形 1001の砂漠の断章』(コラム・マッキャン/栩木玲子訳)「訳者あとがき」公開のお知らせ

早川書房から、5月1日に『世界を回せ』で全米図書賞を受賞したアイルランドの作家コラム・マッキャンの最新作『無限角形 1001の砂漠の断章』を刊行いたしました。実話に基づき、1001の短い章からなる斬新な形式をとり、写真がちりばめられている、実験的な本作。翻訳を担当された法政大学教授・栩木玲子氏による「訳者あとがき」を公開いたします。

あらすじ
無限角形――それは限りなく円に近く、決して円ではない多角形のこと。
バッサム・アラミンはパレスチナ人。ラミ・エルハナンはイスラエル人。二人の住む世界は紛争に満ち、車の通行が許される道路、娘たちが通う学校、そして検問所まで、日常生活のあらゆる場面で、物理的にも精神的にも生きるための交渉が必要となる。

バッサムの10歳の娘アビールがゴム弾で命を落とし、ラミの13歳の娘スマダーが自爆テロの犠牲となったことで、彼らの世界は取り返しのつかないほど変化する。互いの境遇を知ったバッサムとラミは、自分たちをつなぐ喪失感を認識し、いつしかその悲しみを平和のための武器にしていく。

紀元前から現代まで、エルサレムを中心とした世界の神話、政治、文学、音楽など1001の断片を編み込んだ、家族と友情、愛と喪失にまつわる、私たちについての物語。

装幀:川名潤
(書影をクリックするとAmazonのページにとびます)

訳者あとがき

 無限角形。英語でいえばアペイロゴン。
 多くの方にとっては聞き慣れない単語だと思う。日本語は少しゴツゴツした無骨な語感、英語の方はちょっとかわいらしい。アペイロゴン、アペイロゴンと繰り返すうちに呪文のようにも聞こえてくる。この不思議な単語をタイトルとする本書もまた、不思議な本といえるかもしれない。
 そもそも無限角形とは、数えられる無限の辺を持つ形をいう。正三角形なら三つの辺、正四角形なら四つの辺、という具合だが、では無限の数の辺を持つかたちとは? しかも無限といいながら数えられるってどういうこと? 矛盾しているとしか思えない、深淵で哲学的な思考に誘う数理は素人では歯が立たない。でも日本語版で六〇〇ページを超える本書を象徴し、その本質を一言で表すタイトルとしてこの単語がどういう意味を持つのか、そこから考えることはできそうだ。
 著者であるコラム・マッキャンは自身のフェイスブックでこう説明している。「無限角形とは境界がなく際限もないかたちであり、それはすなわち永遠に続く物語のことだ。(中略)この小説の主人公、ラミとバッサムもまた自らの物語を何度も何度も、繰り返し語る。それは一種、無限角形的といってもいいだろう」
 フィクションとノンフィクションを混ぜ合わせた「ハイブリッド・フィクション」である本書には、伝統的な意味でのプロットは存在しない。が、強いていうならば、娘を失ったイスラエル人のラミ・エルハナンとパレスチナ人のバッサム・アラミンの、有限であり無限であり、循環し続ける喪失と再生の物語だ。
 一九九七年九月四日、ラミの娘、一三歳のスマダーは、友達とウォークマンを聴きながら通りを歩いていたところ、三人の若いパレスチナ人による自爆テロに巻き込まれて命を落とした。それから十年後の一月一六日、お菓子を買って店を出た十歳のアビール・アラミンは、一八歳のイスラエル兵がジープから撃ったゴム弾の直撃を受け、その数日後に亡くなる。二度と同じ悲劇を繰り返させないために、二人の父親であるラミとバッサムは、招待を受けた先々で娘たちの物語を聴衆に語り続ける。
 本書のほぼ真ん中に収録されているのは、二〇一六年に二人がイスラエル西岸地区ベイト・ジャラにあるクレミザン修道院で行なったとされる講演である。「昔々」で始まる短い断章をはさんだ、それぞれの講演の符番は500。本書前半の1から499はクレミザン修道院へ向かうラミを追い、後半の499から1は修道院から自宅へ帰るバッサムを追いながら、そのはざまに著者のマッキャンは二人の少女の死を招いた、とてつもなく複雑な歴史的・社会的・文化的事実を、父親たちの個人史とともに断片的にちりばめている。
 合計すると一〇〇一にのぼる断章は、ラミがスマダーに読み聞かせた『千夜一夜物語』と同じように時間と空間を自在に行き来し、ラミたちが生きる不条理で、残酷で、たまさか美しい現実を、そのまま再現しようとするかのようだ。
 ところが、ときに一行ときに数ページにわたるそれぞれの断章は、互いにどう結びつくのか、どう関連しあうのか。まるで脈略がないように思えるので、読者は読み進みながら戸惑い、この物語はいったい自分をどこへ連れて行こうとしているのか、不安に思うかもしれない。なにせ冒頭の1から20までだけでも(ラミがエルサレムからベイト・ジャラへバイクで移動する道中の様子はともかくとして)渡り鳥、古代の投石器、鳥を石で仕留める子供たち、フランス元大統領ミッテランが最後の晩餐で食べたズアオホオジロ、イスラエル上空に浮かぶ偵察・監視用の白い飛行船、そしてゴム弾へと、話が拡散する。
 でもどうかしばらくは頭と心を真っ白にして本書に身を任せ、断片を断片のまま味わってみてほしい。我慢して(?)ページを繰るうちに、ちょうど映画のカメラが後退して少しずつ視野が広がるように、いつしか全体像が見えてくるのが本書の醍醐味。乱暴にあちこち飛びまくっていたように思えた細かいパーツは、その実、きれいにつながり、支え合っていることが、きっと見えてくるはずだ。その意味では、一六〇〇〇個の木製ブロックを組み合わせた奇跡の構造物であるサラディンの説教壇(ミンバル)は、本書そのものの巧みな隠喩ととらえることもできるかもしれない。
 読者の楽しみを削いではいけないが、たとえば無数の話題やイメージの中から、少しだけ例をあげてみると……。毎年イスラエル上空を飛ぶ渡り鳥から、鳥を投石器(パチンコ)で撃ち落とす子供らに話が及ぶのは先述のとおりだが、やがてそれはバッサムが若い頃に抗議活動で石を投げていたことと重なり、最後にはバッサムの娘アビールを殺した兵士が、投石されたのでやむなくゴム弾を撃ったと主張することに帰着する。ミッテランの歯と歯の間ではじけるズアオホオジロの小さな頭の骨は、ゴム弾を受けて破砕したアビールの頭蓋骨に結びつくだろう。これらの断章は豆知識や小ネタの羅列ではなく、アビールの死に厚みと重みを与えるための、必然的なパーツに他ならない。そもそも自由なはずの鳥たちが、捕まえられて足輪をつけられることで「国籍」を与えられるところからは、国籍ひいては国境(境界線)の恣意性が浮かび上がり、それ自体がイスラエルとパレスチナの現状に対する痛烈な批判になっている。
 もちろんこれは粗雑に記述した連想の一例に過ぎず、その繋がり方はもっと繊細で、多層的・重層的で、順列組み合わせは無数にあるはずだ。読者は与えられたパーツを使って自身の無限角形を作っていけばいい。
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 本書の背景となっているのはいわゆるパレスチナ問題である。一九四八年のイスラエル建国と、それに引き続いて起きた第一次中東戦争以来、パレスチナとイスラエルは、一つの領土をめぐってこれまでに大規模な戦闘を四回も繰り返してきた。多くのパレスチナ人が住処を追われ、あるいは虐殺を恐れて難民となり、その後も複数回のインティファーダつまりパレスチナ人による大衆蜂起/反イスラエル抵抗闘争が起こって、七〇年以上経った現在も解決の道筋は見えず、暴力の連鎖による対立は深まるばかりだ。
 二〇二二年末のイスラエル総選挙では、ネタニヤフ元首相が率いる右派勢力が議席の過半数を獲得し、勝利に貢献した極右政党との連立政権が樹立されたばかりだが、翌年三月にはスモトリッチ財務相が「パレスチナ人など存在しない」と暴言を吐いたことも記憶に新しい(“Bezalel Smotrich, Israel's ultra-nationalist minister, delivers anti-Palestinian diatribe in Paris” Mar. 20, 2023, Le Monde)。
 その一ヶ月ほど前にはイスラエル軍がヨルダン川西岸地区ナブルスにあるパレスチナ自治区を急襲して、十人以上が死亡し、八〇人以上が負傷した(“Eleven Palestinians killed during Israeli raid in Nablus” Feb. 22, 2023, BBC)。本書のアビールとスマダーのような子供を含め、イスラエルとパレスチナ双方に多くの民間人死傷者が出続けている状況は痛ましいという他はない。
 それに追い打ちをかけるような、現地での日常的な差別とアパルトヘイトは本書でも生々しく描写されているが、こうした過酷な状況にあってもなお共存への道を信じて活動を続けるラミとバッサムの解決策──というよりは解決のための第一歩は、ある意味でシンプルだ。「話し合わなければ、終わらない」、ラミのバイクのステッカーにあるとおりである。でもシンプルだからこそ、その第一歩は、私たちのささやかな日常にすら適用可能な、ある種の普遍性を持つのだろう(本書五七〇ページから始まる後半143で、ハンストをやめさせたい看守長のドブニクとバッサムとの、手に汗握る駆け引きは、両者がそれなりに満足のいく結果を得ることができる、まさにお手本のような話し合いの実践例だ)。
 最愛の娘を突然失い、互いを憎しみ合っても不思議ではないバッサムとラミが、強い絆で結ばれて前へ進むその在りようもまた、イスラエルやパレスチナといった地域性を超越して、私たちの胸を打つ。
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 二〇二〇年に出版された本書は、同年のブッカー賞など数々の賞にノミネートされ、フランスの翻訳文学賞(Prix du Meilleur Livre Étranger)他を受賞した。スティーブン・スピルバーグ率いるアンブリン・エンターテインメントが早々に本書の映画化権を獲得したことも大きな話題となっている。
 一方で、普遍性を持ちながら極めて政治的な読み方が可能なために一部では論争が生じ、とりわけパレスチナ作家スーザン・アブルハワが『アルジャジーラ』紙に寄せた書評「アペイロゴン──植民地支配主義者による商業出版の過ち、再び」は、彼女が多くの信頼と尊敬を集める作家だけにかなりの衝撃をもって受け止められた。
 しかし『ザ・ニューヨーク・タイムズ』『ザ・ガーディアン』『ザ・アイリッシュ・タイムズ』『ザ・エルサレム・ポスト』『モンドーワイス』など、ネット誌も含めた各紙に掲載された書評はいずれもとても好意的である。またマイケル・カニンガム(『THE HOURS めぐりあう時間たち』集英社)、エリザベス・ストラウト(『オリーブ・キタリッジの生活』早川書房)、カミーラ・シャムジー(『帰りたい』白水社)、テア・オブレヒト(『タイガーズ・ワイフ』新潮社)など、名だたる作家たちが本書に賛辞を寄せている。お墨付きのいかんに関わらず、小説の価値は読者が決めるものだが、カッコ内に記したそれぞれの作家の邦訳作を知る読者にとっては、多少の指標になるのではないだろうか。
 コラム・マッキャンについても、彼の他の著書といっしょに少しだけ紹介しよう。マッキャンは一九九四年に短篇集Fishing the Sloe-Black Riverでデビューした後、翌年には自伝的な長篇小説Songdogsを発表。一九九八年の This Side of Brightness では、本書にも描かれる、マンハッタンでトンネルを掘る建設現場の男たちに焦点をあてている。北アイルランド紛争(マッキャンはニューヨーク在住だが、生まれも育ちもアイルランドのダブリンである)を扱った Everything in This Country Must や、邦訳された 『ゾリ』(栩木伸明訳、みすず書房)などを経て、『世界をまわせ』(小山太一・宮本朋子訳、河出書房新社)で全米図書賞を受賞。『世界をまわせ』は、本書にも登場する綱渡りパフォーマー、フィリップ・プティが一九七四年にマンハッタンのツインタワーの間を歩いた、その命がけの瞬間を見つめた数人の人生がさまざまに交錯する物語だ。
 今のところ、マッキャン作品の邦訳は本書を含めて三冊だけだが、『世界をまわせ』以降も著者は短篇集や小説をマイペースで発表し続けている。本書の出版を機に、彼が織りなす繊細でありながら力強い作品群が、これからもどんどん邦訳されていってほしい。
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 イスラエルとパレスチナについて書かれた本は比較的多い。しかし門外漢である訳者が読んだ書籍の中でも、とくに以下のものからは多くを学ばせていただいた。
 山本健介著『聖地の紛争とエルサレム問題の諸相』(晃洋書房、二〇二〇年)
 高橋和夫著『パレスチナ問題の展開』(放送大学叢書、二〇二一年)
 カーラ・パワー著、星慧子訳『普通の若者がなぜテロリストになったのか』(原書房、二〇二二年)
 シルヴァン・シベル著、林昌宏訳『イスラエルVS.ユダヤ人』(明石書店、二〇二二年)

 折しも東京大学出版会からは〈イスラームからつなぐ〉全八巻がシリーズとして刊行されることになっており、その第一弾『イスラーム信頼学へのいざない』が三月末に出版されたばかり。当地の情勢をまったく知らなくても本書は充分楽しめるが、知っていればさらに合点がいくところが増えるかも。そんな思いから、偏りがあるかもしれないことを承知の上でこのように記す次第である。他にも信頼できる良書はたくさんあるので、ぜひいろいろと探してみていただきたい。
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 絶望の闇の中でどう生きるのか。安易な共感は自重しなければならないが、マッキャンに誘われて本書のディテールにどっぷり浸かっていくうちに、読者はラミやバッサムのとてつもない悲しみや痛みを、分かるというよりは実感できるのではないか。外から理解するというよりは共有する、というか。そのためにこそ、ラミとバッサムは世界中のどこへでも出かけては、自分たちの物語を語っていく。
 今でもネットを検索すればラミ、バッサム、スマダー、アビールに関する新聞記事をいくらでも掘り出すことができるだろう。だが、記事で情報を知るのと、情報のうしろにいる人間を知るのとではまったく異なる体験だ。一時は新聞記者を志してジャーナリズムの専門学校で学んだマッキャンなら、誰よりもその違いを理解しているに違いない。バッサムが〈米国イスラエル公共問題委員会〉に招聘されたときの講演で述べているように、彼らは決してあきらめず、大人しく去ったりもせず、私たちに揺さぶりをかけ続ける。そして本書は二人の再生と挑戦の物語の、まさに延長線上にあるといっていい。
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 本書の翻訳に際しては多くの方々にお力添えをいただいた。とくに早川書房の吉見世津さんの心優しきサポートがあったからこそ、気力と体力を維持しながら翻訳作業を進めることができた。本書は字体に工夫を要する箇所が多く、多言語の文字が混在し、その上写真も入っている。編集作業はたいへんだったことと拝察する。にも関わらず訳者と同じように仕事を楽しんでいるご様子にはずいぶん励まされた。また本書の翻訳にあたりながら、勤め先のハラスメント相談室での仕事も同時並行で執り行っていたのだが、相談室での経験は本書の理解や解釈を助け、訳出にあたっての単語の選び方などにも大きく影響している。相談室のみなさまには深く感謝申し上げたい。
 
 魂に深い痛手を負ってもなおこの世界を生き抜こうとする、すべての方々への敬意をこめて。

 二〇二三年春


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