見出し画像

【表題作「回樹」試し読み無料公開!】斜線堂有紀の初SF作品集『回樹』3/23発売

いま最も注目される作家、斜線堂有紀さんによる初のSF作品集回樹かいじゅが3月23日に発売となります。本欄では、真実の愛を証明できる存在「回樹」をめぐる、ありふれた愛の顛末を描いた表題作を無料公開します。


「回樹」

 そこにあるものは、燃え尽きた残り火の中に微かな暖を求める、祈りにも似た想いだった。
──スコット・フィッツジェラルド「残り火」(村上春樹訳)

 恋人になった日から、千見寺ちけんじ初露はつろ尋常寺じんじょうじりつの前で着替えなくなった。
 ルームシェアを始めてから、もう三年になる。下着姿どころか一糸まとわぬ姿を見たことも何度だってあった。風呂上がりの初露がバスタオル一枚でアイスを食べているところや、着替える前に寝落ちたあられもない姿を、律はちゃんと覚えている。
 しかし初露は意を決したような顔つきで、はっきりと宣言した。
「友達の前で脱ぐのと恋人の前で脱ぐのは違うじゃん」
 きっちり着込んだシャツの合わせ目をいじりながら言われると、もう頷くしかなかった。こんなにも真面目に恋人関係について考えている初露に対し、自分は甘すぎると反省の気持ちすら湧き上がってきた。
「……あー……なるほど」
「出し惜しみしようと思ったんですよ、分かりますかな」
「何だその……かなって。変な方向にかしこまるんだな……」
「あとね、爪もちゃんとやすり使うし、丁寧に磨く。枝毛も見せない。恋人に相応ふさわしい、いつ見ても可愛い初露ちゃんでいる。ただし、ここぞという時に髪は巻いてほしい。背中のリボンも結んでほしい」
「わかった。別にいいけど。……ていうかそれ、私もこれからしっかり生きてかなくちゃいけなくなるじゃん……」
 友人同士の気安い距離感から一つ線を引いた言葉に、少しだけ気後きおくれしてしまう。
 律の目の前に、手が差し伸べられる。宣言通り、その手には整えられた爪が艶やかに輝いていた。その輝きにづきながら、律はゆっくりと手を取った。掴んだ手が熱い。
「これからよろしく、律」
「……うん、よろしく初露」
 尋常寺律は趣味が悪いので、この時の手の温かさと『犯行』に及んだ時に感じた冷たさを重ね合わせて反芻はんすうする。甘いものとしょっぱいものを交互に食べると無限にいけるってことだね、と思い出の中の初露が笑う。
 
 取調室の素っ気ない明かりの下で、律の荒れた爪は殊更ことさら目立った。最後にやすりを使ったのはいつだっただろうか。初露に言われて、しばらくはちゃんと整えていた。伸びた爪で触られると痛いし肌に傷がつく、というのが彼女の意見だった。クリームを丁寧に揉み込んだ初露の肌は爪を受け流すほど柔らかかったけれど、それはそれ、らしい。
 大人しく従ったのは、自分の指が初露の表面だけをなぞるわけではなかったからだ。それも、恋人同士になって変わったことの一つだった。ただの友達同士なら、爪の長さを気にすることもなかった。
「すいません。大丈夫ですか?」
 目の前に座る女刑事がそう声を掛ける。切れ長の目に、ちゃんと手入れされたショートボブはいかにも隙が無さそうに見えた。忙しくも隅々まで気を遣うタイプなのだろう。彼女の爪にはしっかりとトップコートが塗られていた。
 これで三度担当が変わった。大方おおかたそちらもうんざりしているだろう。お気の毒なことだ、と他人事ひとごとのように思う。
早島朱里はやしまあかりです。新たに今回の件の担当になりました。お手数ですが、再度名前の方をお願いします」
「尋常寺律です。二十八歳。自営業で、普段は家で仕事してます」
 サービス精神を発揮して、求められることを先に答えた。逮捕されてから何度も繰り返したその言葉は、歌の一節のようによく馴染んでいる。一息で言い切って早島を見ると、彼女は微かに驚いた顔をしていた。
「尋常寺律さん。あなたには恋人である千見寺初露さんの遺体を盗んだ容疑がかけられています。間違いありませんか?」
「はい、間違いありません」
 律は淀みなくはっきりと答える。爪をちゃんと切らなくなっても、一緒に暮らせなくなっても、葬式にすら出られていなくても、その肩書だけは残っている。というより、もう解消出来なくなってしまった。恋人同士が別れる為には双方の合意と納得が必要で、初露はもう死んでしまった。降霊術の発達していないこの世界では、もう初露の意思を確認することが出来ない。解約不能になったサービスのように延長され続ける。だから、そうだ。
おつしゃる通り、私と初露は恋人同士でした。私は八年一緒に暮らしていた恋人を盗んだんです」
 
 大学二年生の時に計画したルームシェアは、始まる前から終わっていた。当初の予定では、3LDKの部屋を四人でシェアする予定だった。メンバーは学科の友人の真壁菜摘まかべなつみ。同じく学科の友人である佐田椎菜さだしいな。そして、菜摘のサークルでの友人である千見寺初露だった。
 この時点で、律は初露とほとんど面識が無かった。しかし、四人の住人の中に一人知らない人が混じっているくらいは許容範囲だろう。三分の二を握っているのだ。孤立することはあり得まい。
 やってきた引っ越し当日、新居を訪れた律はキャリーケース一つで乗り込んできた見知らぬ女に出くわした。その頃の初露は黒髪を腰の辺りまで伸ばしていて、目には緑色のカラーコンタクトを入れていた。可愛い、けど異様だ。
 最低限の家具だけがある部屋の中で、律は彼女を見つめる。艶めいたサーモンピンクの爪がやけに長い。この頃の律はジェルネイルのことを知らなかったので、初露が長い爪でスマートフォンを弄っているだけで恐ろしかった。
 ひとしきり沈黙を味わった後で、初露が不意に声を出した。
「菜摘、そろそろ来るだろうけど、ここには住まないと思うよ。そして、椎菜ちゃんは今日は来ない。契約したのは私だし、いなくても問題無いだろうってことで」
「え? ちょっ……どういうこと?」
「ここ、なんでこんな安いのか知ってる?」
 クイズでも出すかのようにそう尋ねてきた。
「……ていうかそもそも家賃いくらだっけ? 八万? 安いなーとは思ってたけど」
「ここ、実は人死んでるんだって。事故物件サイトに載ってるのを菜摘が偶然見つけちゃってさ。それで脱落したんだよ、あの子。知らなかったら知らないままで住んでただろうにね」
 なるほど。死体か、と律は思う。彼女が元々住んでいたアパートは、狭いくせに七万の家賃が掛かった。ネット回線は遅いのに、工事する余地も無かった。部屋を見回したが、死体の余波は見当たらない。暮らすには問題が無さそうだ。
「…………死体ねえ」
「首吊りらしいけど」
「へえ。参考になった」
「菜摘が謝っといてって言ってたよ。直接言わないのは気まずかったからかな。一緒に住めなくてごめんって。でも借りちゃったからねえ」
「……そっちは平気なの? 人が死んだ部屋でも」
「人間なんていつか死ぬからね。思うんだけど、有史以前まで含めたら死体の数なんてとんでもないよね。どこでだって人は死んでると思うな。墓があるか無いかの違いだけで、どこを掘ったって死体まみれなんだよ。知ってる? 今でさえ墓を建てる場所が無くて困ってるのに、これから先はどんどん墓の場所で困っていくらしいよ」
「まあ、狭いからね。日本」
「でも、みんな大切な人のお墓を建てたいよね。参りたいし、祈りたい。だから、どんどん死者は自分達の住んでいる場所に隣接してくると思うよ。デッドスペースに死体を埋めて、共存していくわけだね。そういうことになったら、自分の家の隣に墓がやってきてもおかしくないわけだ。そうなったらもう気にしても仕方ないってことになるはず」
「言いたいことは分かったけど」
「私達は折り合いをつけなくちゃいけなくて、この場所が分水嶺ぶんすいれいなんだ。だから私は気にしない」
 初露はそう言って、真面目な顔で頷いた。
 後に分かったことだが、初露がここまで饒舌に事故物件を擁護したのは、単に金に困っていたからだ。バイト先と揉めて退職願を叩きつけた初露は、何が何でも安価な家賃と新しい同居人を確保しなければならなかった。墓の話は地域経済学の講義で聞いたばかりのもので、話題の鮮度が高かっただけだ。初露の言葉に深い意味は無かった。
 しかし、そんなことを知らない律は、素直に感心した。場所という資源は有限で、人がよすがを求める限り、死者との距離はどこまでも近づいていく。その考えを面白いと思ってしまった。
 よく考えてみれば、家の中で人が死ぬのと家の外で人が死ぬのとでは全く違う話だ。家の外にムカデが出るのと、家の中にムカデが出るのとじゃお話が違う。しかし、そのことを咄嗟とっさに忘れてしまったのだ。
「菜摘がこれから言い訳と言葉を尽くして謝り、ルームシェアを反故ほごにすることは分かった。でも椎菜は? 椎菜も事故物件駄目なの?」
「椎菜ちゃんは、なんかこの段で彼氏と住むことになったらしい。引っ越しの準備してるとこ見られて、だったら一緒に暮らそうよってことになったとかで」
「あ、はい。それはまたハッピーなお話で」
 椎菜もまた、言い訳と言葉を尽くして謝り、ルームシェアを反故にするのだろう。そのことはもう分かった。幸せそうなこの裏切りは責めづらいし、多分くつがえることもない。
「私、もう引っ越す気満々で来ちゃったんだけど」
「私もそうだよ。色々なものを捨てたからここに来るしかなかった」
 初露がつまらなそうに答える。そうして残ったキャリーケースが、所在無げに揺れていた。
「二人で割れば家賃は四万。払えない額じゃないよね? 確かに二万は魅力的だったけど、前より安いよね?」
「それはまあ、仰る通りで……」
「なら、残った道は一つしかないんじゃない?」
「そうかもしれないけど……」
 ただ、二人で暮らすのと四人でのルームシェアではあまりにも話が違う。しかも、残ったのが知り合いの知り合いである女だ。四人で割って丁度良い部屋を、二人で割るのは重すぎる。同居をするなら、せめてもう少し気心が知れた相手がいい。
「ルームシェアはいいのに二人暮らしは駄目なんだ。なるほど」
「近すぎるんだよ。二人で住むのは同居っていうより同棲感が強くてきつい。千見寺さんはそういうのない? これから全部の生活を二人で切り分けなくちゃいけないんだよ? 四人いたらこの苦しみは薄まったと思う。これはかなりきつい」
「同居と同棲か。意味は同じなのに後者の方が恋人感があるね。同居人って言葉があるのに同棲人って言葉が無いからかな」
 初露は意図的に話を逸らしていた。ここで律に部屋を出て行かれるのは困るのだ。
「私達、上手くやれると思うな。尋常寺さんのこと初めて見た時にピンときたから。しばらく頑張ってみようよ」
「……食器」
 起死回生の一手として、律はそう言った。初露の宝石みたいな目が細められ、意図を探るように首がかしぐ。
「食器類は菜摘が用意してくれるはずだったから、この家には食器が無い。私はこういう時、パックからじかに食べてなかなか食器を揃えない。こういうの嫌じゃない?」
 果たして、初露は備え付けられているテーブルを叩きながら言った。
「テーブルにラップを巻いたら皿の代わりになるんじゃないかって思ったことない? 私はあるけど」
 その言葉で、もう駄目だった。流石さすがに無い、と返した律は、既に彼女との同居を決めていた。初露はそういう無精なことをするタイプじゃない。むしろ器一つにこだわる方だ。そんな彼女がわざわざそう言ったのだから、口説き落とされて然るべきだった。
「契約だってどうせ二年でしょ。お互い就職して出て行くんだから、それまでは騙し騙しで逃げ切ろうよ」
 千見寺初露は、戦争の方向性でも定めるような口調で言った。ラップを巻かれかけている哀れなテーブルを挟んで、じっと律のことを見る。
 逃げ切ることくらいなら出来るかもしれない、と思った。長く人間と暮らしていけば歪みが出てくる。我慢が出来ないことも増えていく。でも、ゴールさえ設定されてしまえば、そこに向かって逃げ切ることくらいは可能なんじゃないかと。たかが二年だ。
 これが意外と上手くいった。二人は就職しても、あの部屋を出て行かなかった。逃げ切るという目標が過去になった。
 ところで、初露は恋人になった日を境に同居のことを『同棲』と呼ぶようになった。
 友達から恋人になる際に、初露はそういった細部にこだわった。細かい部分から調律することで、二人はスムーズに恋人に移行した。律が想像したのはテセウスの船だ。パーツを一つ一つ変えていって、初露は上手いこと船そのものを換えてみせた。今はどんな形をしているのか知るよしもない。

「尋常寺さん、死体を盗んだ動機は何ですか?」  
「どうしてそれが聞きたいんですか? センセーショナルな理由付けも大きなトラブルもないから、この話は映画化するには向かないと思う」
 律が尋ねると、早島は少しだけ顔をしかめた。
「茶化さないでください。私は、あなたの話が聞きたくてここにいるんです。千見寺さんと交際を始めたのはいつからですか?」
「……茶化してませんよ。そっちこそ随分突っ込んだことを聞くんですね」
「いつからですか?」
「六年前です」
 
 首吊り自殺があった家で暮らし始めて、一年八ヶ月が経った。
 幽霊は一度も見なかったし、ネット回線は快適だった。逃げ切れるかを探っていた二人の足は、案外軽やかに生活を渡った。
 これからの話をする段になって、二人はささやかな宴を開くことにした。初露がちょっと上等なスパークリングワインを開け、律は一日じゃ食べきれないような鶏の丸焼きを取り寄せた。
「律、お疲れー!」
「二年間逃げ切れそうでよかった」
 言い合いながらグラスを鳴らす。琥珀色の液体を飲み干すと、喉の奥に火が灯るようだった。
「いいの開けたね。高かったんじゃない?」
「うーん、でも就職祝いだから。お互いに」
 初露は都内のカプセルトイの会社に就職した。意外な選択に最初は面食らったものの、細かくて可愛くて無駄なものが好き、と語る初露の言葉で腑に落ちた。ガチャガチャっていうのは貴族の遊びだからね、と彼女が笑う。
「でもまあ、律のは就職っていうのかなって感じだけど。在宅ワークなんでしょ? いいなあ」
「自営業者を敵に回すような発言を。ちゃんと納税してるんだからな。通わなくていいのはその通り。……初露はどうするの? 家」
 さりげなく切り出すと、初露はううんとうなった。
「ここから会社、通えなくないけど。社宅があるから迷ってるんだよね。律との暮らしもこの家も気に入ってるから、ちょっと惜しい」
 ちょっとなのか、と思った。その副詞こそ、ちょっと気に食わない。この一年八ヶ月で目立った衝突は無かった。お互いのルールを探り合いながら、二人は極めて良好にやってこれたのだ。律が二日連続で同じパジャマを着ていても、初露がお菓子で夕飯を済ませてもお互いに干渉しなかった。それがどれだけ住みやすかったことか!
「このままずっと暮らし続けたらどうなるんだろ」
 まるで明日の天気がどうなるかを気にするような口調で、初露が言った。天気よりも他人事な口調だったかもしれない。晴れでも雨でもあんまり関わりが無さそうだったからだ。律は少し想像する。停電の中でも物の配置が分かるくらい慣れ親しんだ部屋を見る。
「……それはまずい気がするって。ほら、ライフステージ? とかどうすんの」
 内心の動揺を悟られないよう、努めて冷静に答える。
「え、律がそういうこと言うの? あんまりそんなこと気にするタイプじゃないでしょ、律は」
 スパークリングワインをぐっと傾けながら初露が言う。
「女二人暮らしをずっと続けるのも幸せかもしれないけどね。私、律との生活好きだよ」
 初露はそんなにアルコールに強い方じゃなく、一杯目から目を赤くしていた。彼女が飲むのはよっぽど特別な時だ。それに思い至った時に、初めてこの生活が終わる実感が湧いた。
 綺麗に巻かれた初露の髪は、律がやった。意気揚々とカールアイロンを買ってきたのに、全く使いこなせない初露が哀れになったのである。彼女の童顔に巻髪が似合うことを知ってしまったら、朝の十分をくれてやっても構わなくなってしまった。
「今だから告白するけど、たまに初露の寝顔見てたよ。クーラーつけないで寝てるから眉間に皺寄っててさ」
「や、まじまじ見ないでクーラーつけてよ。そんなこと言うなら、テレビで感動的なVTRが流れる時に目伏せてるの知ってるんだからね。泣けばよかったのに」
 終わりを意識してしまったからか、妙な思い出ばかりが頭の中をよぎった。生活の走馬燈だ、と思う。ぐるぐると回っていく千見寺初露のことを考えていると感傷的になりそうだったので、ワインのボトルに手を伸ばす。泣けばよかったのに、と言われたくはなかった。
 その時、偶然手が触れた。下戸げこのくせにペースの速い初露が、さっさとグラスを空にしたせいだった。
「あ、ごめん」
「いや、こっちこそごめん」
 お互い、反射的に謝っていた。別に謝ることもないのに。初露は出会った頃にしていたジェルネイルを取って、艶やかな爪を丸く研いでいた。触れ合っても痛くなんかなかった。ややあって、初露が言う。
「ああ、なんだろ。このこと走馬燈に出てくる気がするな」
 その単語のチョイスが駄目だった。同じ物を食べ過ぎて、身体の中に溜まる語彙ごいまで同じになってしまったんだろうか。綺麗な夕焼けを見た時に同じ語彙を持つ女のことを思い出したくはなかった。同じ窓から見て、同じ言葉を聞きたい。
 さっき触れ合った手を掴む。さっきよりずっと触れている時間が長いのに、今度は謝らなかった。
「あと二年くらい騙せないかな。騙し騙しで逃げ切るんでしょ」
「あは、律の手すごい熱い。どうしたの」
「更新しよう。その髪に未練あるでしょ」
 我ながら他に口説き文句はあったんじゃないかと思ったのだけれど、それしか言えなかった。ただ、尋常寺律に甘い千見寺初露には効いてしまった。握られたままの手を押し返すような形で、初露が体重を預けてくる。
 ブルーベースの自分とイエローベースの初露では、選ぶ口紅の色がまるで違う。だから、唇を合わせれば色が混じってしまうのだ。案の定、赤みが強い律の口紅が初露の付けているピンクベージュを台無しにした。なのに、それが嬉しかった。
 小さな口の奥で震えている舌を軽く噛むと、怒ったように初露が肩を叩く。けれど、最初にキスをしてきたのはそっちだったので、構わず舌を絡め続けた。離れた時に冗談のようになったら傷つくだろうな、と頭の中で考えたことを覚えている。
 離す頃には、初露の手は真っ白になっていた。こっちの方がよっぽど謝らなくちゃいけないだろう。初露は酷い色合いになった口紅を雑に拭って笑ってみせた。
「エンドロールに流れる肩書きが親友だと勿体もったいない気がしてきた。付き合おうよ、律」
 
 こういった詳細の全てを目の前の刑事に話したわけじゃない。律が口にしたのは「まあ、なりゆきで」というシンプルな七文字だけだった。なりゆきではあったのだと思う。
「多分、気が合ったんだと思います。考えてることの波長が合うっていうのかな。みんな一度は親友と付き合ってみたいと思うと思うんですけど、そんな感じです」
 そこで言葉を切って、早島のことを窺う。ここまでの話がどう受け取られているのかは分からなかった。なので、薄い笑みを浮かべて尋ねてみる。
「ところで、早島刑事さんはどうしてこうも動機にこだわるんですか? 裁判で有利になるとかなら別にいいんですけど。私、罪を軽くしたいとかそういう気持ちは無いので。ずっと思ってたんですよ。警察の人はどうして犯人が分かっただけじゃ飽き足らず、動機まで気にするんだろうって。そこから先って警察の仕事というよりは探偵とかの仕事じゃないですか?」
「この事件はまだ終わっていません」
「というと?」
「千見寺さんのご両親は、娘さんの遺体のある場所を知りたがっていました。私達は銀行強盗の犯人を捕まえても、盗んだ現金がどこにあるかを探します」
「けれど、早島さんはもう私が遺体をどうしたのかご存じなんだと。だって、そうじゃなかったらそんな目しないでしょ」
 千見寺初露の遺体が、もうこの世のどこにも存在しないことを、早島は知っているはずだ。そうでなければ、改めて話しになんてこないだろう。早島が微かに表情を固くしながら言う。
「千見寺さんのご両親とは会ったことがありますよね? 何度も」
「そうですね」
「千見寺さんのご両親はあなたを『娘の大切な親友』だと言っていました。だから余計に理由を知りたがってたんだと思います。納得が必要だった」
「……初露の家は親と仲が良くて、私を実家に泊まらせたりもしてました」
「親友として?」
「ええ。親友として」
 
 初露の両親に、この関係について話したことはなかった。
 二人並んでご挨拶、なんてことはせず、実家に行った時は出された石狩鍋を親友としてつついた。
 そして、最近の初露のことを話す。初露が最近、十年くらい前のドラマにまって延々と観ていることや、パックのアセロラジュースを箱買いしたことを語る。
 けれど、同じベッドの中で眠る初露が必ず自分に足を絡めて冬を報せることは言わない。情報の取捨選択だ。
「長く初露と仲良くしてくれてありがとうね。律さんと出会ってから、初露は楽しそうで」
 近況報告を受けながら、初露の母親は笑って言った。食洗機に皿を放り込むのを手伝っている時のことだった。初露の家は器が沢山あって、魚一つ載せるのにも色の似合うものを選ぶのだった。
「あまり楽しそうだから、もうあの家を出られないんじゃないかって。行き遅れに巻き込んでしまうんじゃないかって申し訳ないんですよ」
「私も初露との生活は楽しんでますよ。ずっとそうしていたいくらいです。一緒にいてくれている初露には感謝してます」
「初露は律さんの話ばっかりするんですよ。だから、律さんのことばっかり詳しくなる。最近のご活躍もめざましくて」
「変なこと言ってなかったらいいんですけどね……」
 律はざらざらとした手触りの黒い皿を撫でながら返す。
 初露の実家に泊まる時は、初露の部屋で寝るのが決まりだった。初露は子供の頃から使っているベッドで、律は床に敷かれた来客用の布団で。布団はいつでもふかふかだった。きっと律が来ると知って乾燥機にかけたのだろう。
 けれど、その布団は殆ど使われなかった。シングルベッドでぴったりと寄り添いながら、初露が笑う。
「お鍋の時、私が足でつついても無視してたでしょ」
「無視するよ。というかよくバレなかったね。娘の足癖が悪いって泣かれるところだったじゃん」
 そう言うと、初露がさっきのように爪先で足の甲を撫でてきた。器用なやり方だと思う。こんなことを両親の目の前でやるんだから、意図は明白だった。悪戯好きな足を手で捕まえて、隙間を埋めるように彼女のことを抱きしめる。小さなベッドは、家の物よりも派手にきしんだ。
「さっきのお母さんとの話聞いてたな? 悪趣味め」
「自分の恋人が母親と何話してるか気になるよ」
 望まれていることは分かっていたけれど、律は敢えてそれを口にしなかった。初露だってあそこに無理矢理入ってきて、母親の目の前でキスをしたりはしない。お互い様だ。
「言う時は派手にやろうよ。豚の丸焼き買ってきて、半分に割いたら私達のフィギュアが出てくるとか」
「嫌すぎる」
「そう思うと楽しみだね。言うの」
 初露がけらけらと楽しそうに笑う。ばたつく足を捕まえて、甲に歯を立てた。足癖の悪さをいさめるように、強めに吸って跡を残すと、初露が「あっ」と慌てた声を上げた。
「……私が履いてるパンプス、甲のとこあいてる」
「え、」
「いいよ、もう。この家にも絆創膏ばんそうこうくらいある」
 諦めたように初露が言って、自由な方の足を腰に絡めてきた。
「声あんま出さないでよ。ほんとに」
「大丈夫、この部屋防音だから。私、ピアノやってたんだ」
「その嘘聞くの八回目」
 言いながら太股に唇を寄せる。ぴく、と身体を震わせる初露は、冗談めかした口調に反して従順に息を潜めていた。声を抑えてと言ったのは自分なのに、唇をこじあけたくてたまらなかった。このベッドが、千見寺初露の人生を受け止め続けてきたからかもしれない。
 
「関係のことについてお話しすることはなかったんですか?」
「初露の親から『娘と仲良くなってくれてありがとう』って何度聞いたか分かんないんですよね。多分、本心から言ってたと思うんですけど。それを聞いた上で、言うのもなって」
 千見寺家の石狩鍋は味噌からこだわっている手間の掛かったものだ。初めて石狩鍋に出会った律が美味しい美味しいと喜んだから、律が来る時はいつも石狩鍋が出てくるようになった。
「でも、初露の両親のことは好きでしたよ。すごく」
「その千見寺初露さんのご両親が、共に行方不明になっています」
 なるほど。だから『知りたがっていた』という表現になったわけだ。今更ながら腑に落ちる。
「行き先をご存じですね?」
「予想はつきます。初露のことが本当に好きだったんですね」
 思わず笑ってしまう。物事は予想より早く動き出している。
「初露の話をしてもいいですか? あの子って、一人っ子なのに末っ子気質なんですよね。だから甘えたがりだし、甘えるのもすごく上手い。同居人に毎朝髪を巻かせる奴います? いや、恋人だったか」
 好きに話させようと思っているのか、早島は口を挟まなかった。それを良いことに、律は続ける。
「でも、甘やかすのも同じくらい上手かったんです。私、結構忘れっぽいし、物とかもよく失くすんですよね。一緒に旅行行ってもあれが無いとかこれを忘れたとかをやらかしがちで。それで落ち込むから、場の空気をめちゃくちゃ悪くするんです。初露と初めて行った旅行の時も同じだった。でも、初露は笑って『行った先で買えばいいよ。ご当地のものならお土産にもなるでしょ』って」
 思えば、その言葉がなければ、律は初露の告白を受け入れたりしなかったんじゃないかと思う。あの言葉で、初露とはずっと一緒にいられるんじゃないかと思ったのだ。
「旅行ですか。どちらに行かれたんですか?」
「色んなところに行きましたよ。私は旅行好きですし。車で行けるところならどこでも行った」
「運転はあなたがしていたんですね?」
「初露は免許を持ってなかったので、運転したのは私だけです。でも、私のセダンの色決めたの初露なんですよ。赤とか目立って仕方ないからやだって言ったのに」
「そのセダンですが、仙台駅近くに乗り捨てられていましたね。そこからあなたは、新幹線で東京に戻って自首をした」
「そうですね」
 少しの思いつきで車を乗り捨て、二時間ちょっと新幹線に乗った。そこで最後の仕事をやり終え、それから自首をした。何も間違っているところはない。
「尋常寺さん」
 早島が、丁寧に言葉を切った。
「あなたは『回樹』の下に向かったんですね」
 律は静かに頷きを返す。
 
『回樹』とは五年前に秋田県のとある湿原に出現した、全長一キロ程度の巨大な人型の物体だ。顔は無く、体つきは男と女の中間であった。身体は薄青色をしており、空を切り取って固めたように見える。
 回樹は一夜にして出現し、そこには前触れも予兆も何も無かった。衛星のデータを確認したところ、回樹が出現したと思しき午前二時三十一分から三十二分の間は映像が途切れていた。
 回樹の取っている姿勢は回復体位と呼ばれるものである。
 横向きに寝転び、膝を九十度に曲げて身体を支え、上側の手──回樹でいう左手を顎の下に差し込み、枕にしたような姿勢である。
 回樹の『回』とは、回復体位に由来するが、『樹』は、この物体を見学に来た地元の林業者が名付けたものだ。
 仄青く光るこれを、彼らは当たり前のように樹と呼んだ。回樹が寝転んでいるところにはかつて樹が生えていたのだから、それを押しつぶすように生えてきたこれも樹だろう、という理屈である。
 回樹の存在は瞬く間に話題となり、インターネットの玩具にもなった。みんながみんな、好き勝手にこの樹の正体を予想し合った。神に類するものだと言う人間もいれば、宇宙からのメッセージであると言う人間もいた。秘密裏に国が開発していた兵器だという主張も人気があった。
 政府は当然対応に追われた。すぐさま各分野の専門家を集めた調査チームが組まれ、回樹の解明にあたった。
 しかし、調査は難航した。難航した、というより殆ど進まなかった。
 回樹はこの世にあらざる物質で出来ており、どんなものであっても損なわれなかった。欠片かけらを分析に回すことも出来なかった。
 打撃を加えると、こぉんとそぐわない音が響くばかりで、衝撃は吸い込まれてしまう。それは、穴の中に物を落とした時に似た音で、物と物とが激しくぶつかり合う音ではなかった。
 X線を通さず、加熱にも冷却にも反応しない回樹は、いよいよ混乱を引き起こした。
 撤去しようにも、巨大な回樹は動かすことすら出来なかった。これだけの質量のものを切り分けずに運ぶことは難しい。仮に移動出来たとして、どこに捨てればいいのかが分からなかった。
 回樹が人型であるということが国民の不安を煽った。あの奇妙な樹が起き上がり、自分達を襲ったらどうするのかと連日ネットが騒いだ。一部では、あんなものは存在せず、メディアがまことしやかに作り出したフェイク映像だという話も持ち上がった。
 誰も彼もが回樹に興味を示し、それの解明を望んでいた。
 ありとあらゆるプロフェッショナルが回樹の調査に挑み、そして何の成果も得られずに去って行った。回樹に対する関心は、その中身がすっかり暴かれるまで尽きないと思われていた。
 しかし、五年経った今は回樹についての議論はすっかり落ち着いている。国民はあるべきものとして受け入れ、全ての調査はあっさりと打ち切られた。
 回樹の最も根本的な性質が明らかにされたからだ。
 以来、回樹は出現した時と変わらない姿でそこに在り続けている。
 
「回樹については、どのような認識でいましたか?」
「その辺りもちゃんと聞かなくちゃいけないんですね。大体理解してるんじゃないですか? ……まあ、別にいいです。私も、大体の知識はネットで調べました。都市伝説みたいなものっていうか……そうだ、早島さん。お墓の買い方って知ってますか?」
「……墓地を見繕うのが最初でしょうか。そこからは、あまり。区画が売っているのか……」
「墓地を知らない人はいないのに、買い方になるとよく分かんないですよね。私は最初に石屋さんに行くのかと思ってました。私と回樹もそんな感じの距離感でしたよ。必要な段になるまで調べなかった。自分の人生には関わりのないものだと思っていたので」
 
 回樹の奇妙な性質が明らかになったのは、出現から一月が経った頃の話だ。しかも、偶発的な事故が原因だった。
 全く進展しない調査の最中に、松木という名の男が死んだのである。
 松木はとある大学から派遣されて来た、植物地理学の研究者だった。彼は回樹そのものというより、回樹が出現したことによって周りの植物がどのような影響を受けるかを調べていた。
 彼はいつも通りに回樹の下にやって来て、回樹の近くで植物を採取していた。そこで突然、意識不明になった。彼は元々心臓に病を抱えており、調査中に偶然発作が起こってしまったのである。周りは懸命に処置を行ったが、ドクターヘリが到着する前に死亡した。
 回樹に異変が起こったのは、その時だった。
 何の刺激も加えていないのにもかかわらず、回樹が例のこぉんという音を断続的に鳴らし始めたのだ。それと共に、回樹が震え始める。周りにいた人間は慌てて回樹から距離を取った。しかし、回樹の震えは全く地面に伝わらず、やがてあっさりと止まった。
 そして、気づいた時には松木の姿が消えていた。
 研究者たちは同僚の姿を探したが、周囲一帯を探しても見つからなかった。そこでようやく、回樹の姿を撮り続けていた監視カメラを確認しようという人間が出てきた。
 高性能カメラは、あの時何が起こっていたかをちゃんと記録していた。
 振動し続ける回樹に向かって、松木がゆっくりと引き寄せられていく。見えない手が彼を導いているかのようだ。そのまま松木と回樹の距離が縮まり、双方の輪郭が触れる。今まで何も通さなかった回樹が、松木の死体をむように吸収していく。
 すぐさま、松木が吸収された場所に掘削用のドリルが当てられたが、回樹は相変わらず何をも通さない堅牢さのままだった。
 死体を吸収する。それが、初めて分かった回樹の性質だった。

「『暗闇坂の人喰いの木』という小説があります。さらし首の名所だった暗闇坂という場所に生える巨木を巡るミステリなんですけどね。タイトルからも分かる通り、この木が人を喰うんです」
「流石にお詳しいんですね」
 早島がいぶかしげに言う。褒められている気はしなかった。むしろ、悪趣味さを責めているのだろう。
「でも、この物語はミステリですから、一応の解決を見せるんですけどね。面白いですよ。良かったら読んでみてください。……でも、現実は恐ろしいですね。本物の人喰いの木があるんですから」
「私にはあれが木には見えませんが」
「そうですか? 近くで見ると、あれはなかなか木でしたよ。遠くから見るとよく分からないんですけど、回樹はちゃんと生きてます」
 近くで見た時の、あの震えるような感動が忘れられない。五年前から回樹のことは興味の対象だったが、どうしてもっと早く回樹の下に来なかったのだろうと思うほどだった。背中に負った初露の重みすら忘れて、律はしばらく回樹を眺めた。それほどの衝撃だった。
 
 回樹が松木を飲み込んでからは、手早く実験が進められた。
 ありとあらゆる動物の死骸を回樹の下に置き、同じことが起きるかを調べた。しかし回樹は犬にも猫にも反応しなかった。人間に近いものとして見繕われた猿でも駄目だった。
 回樹が吸収するのは人間の死体だけだったのだ。
 こうして、進んだかに見える調査はまたも暗礁に乗り上げた。この得体の知れない代物は人間の死体を吸収するらしい。そこから先が続かないのだ。
 そうなると、気になるのは次のようなことだった。果たして回樹は人間の死体なら誰の物であろうと吸収するのか? それは年齢性別人種に拘わらないのか? 人間の死体の一部であっても回樹は反応を示すのか?
 それらの疑問を解消する為には、更なる人間の死体が必要だった。しかし、正体不明の回樹に提供する死体を募ることは研究者たちの中でも議論を呼んだ。回樹にこれ以上人間を飲み込ませていいはずがない。ただ、回樹に人を飲み込ませることを死者への冒涜だとも言い難かった。松木はどうあっても回樹から取り戻せないからだ。
 次第に、死体を飲む回樹は天国や地獄と同じ文脈で語られるようになった。回樹に飲み込まれた人間の魂はどうなるのか。あの中には何があるのか。回樹こそが楽園なのではないか?
 次の手立てが浮かぶ前に、事態が動いた。
 松木の妻が、異様な熱心さで回樹の下に通うようになったのである。
 最初は、死んだ夫のことをしのんで足繁く通っているのだろうと思われていた。彼女と松木は仲睦なかむつまじい夫婦として評判だったからだ。突然夫を亡くしたことで気持ちの整理が出来ていないのだろうと。大切な人をとむらうことも出来なくなってしまった彼女に、最初は誰もが同情していた。
 つまり、誤解されていたのだ。
 彼女は回樹という奇妙なものに夫を永遠に奪われた可哀想な女で、夫は回樹というものを解明する為の最初の犠牲になったのだと思われていた。それが見当違いもはなはだしいと、最初は誰も気づかなかった。
 彼女は悲しみに暮れているわけではなかった。回樹を見つめる彼女の顔が、春の海のようにいでいた。訝しがり始めた周りに向かって、彼女は笑顔で言う。
「回樹がいとおしいんです。あれはあの人そのものだから」
 その言葉が全てだった。穏やか極まりない顔で、彼女は続ける。
「私、分かるんです。あの人があそこにいるということが。回樹はあの人そのものです。私はあの人をまだ愛している。そして、これからも愛し続けるでしょう。それだけの話です」
 こうして、回樹の第二の性質が判明した。
 愛する者の死体を飲み込まれた人間は、かの人を愛するように回樹を愛するようになるのだ。
 回樹の調査が立ち行かなくなったのは、この性質が原因であった。回樹に愛しい者の死体を吸収された人間は、回樹にその愛情を転移させるのだ。夫を愛するように回樹を愛するようになった彼女の姿を見て、次が続いてしまったのだ。
 調査に当たっていたとある生物学者が、棺と共に回樹の下へとやって来た。中にいたのは、十二歳になったばかりの娘の遺体だった。
「妻から引き継いだ遺伝性の難病なんだ。三年前からずっと闘病を続けていたが、先日亡くなった。この子を回樹へと取り込ませたい」
 周りは強硬に反対したが、その研究者は土葬や海洋葬と同じだと言って譲らなかった。それに、娘の遺体の所有権を主張されては手も足も出なかった。妻は既に同じ病気で亡くなっており、彼は一人で娘のことを育てていたからだ。娘の遺体は彼の物だった。
 愛情の転移はしっかりと起こった。娘の死を悲しんでいた彼は立ち直り、回樹を娘と同じように愛した。そして、自分は回樹の全ての機能を理解した、と触れ回った。
「この国には、これ以上墓を建てる土地が無い。だが、人は死に続けるし墓は必要とされている。その為に回樹が生まれたのだ。人が墓に求めるものの全てが、回樹には詰まっている」
 いつの間に宗教学者になったのだ、という揶揄やゆも飛んだ。だが、彼は真面目な顔をして、主張を一切取り下げなかった。それどころか、調査そのものを打ち切るべきだという話まで持ち出してきた。
「あれは瑞葉みずはそのものだ。私には分かる」
 瑞葉、というのが娘の名前だった。
 三番目の死体が大きな転換点になった。土地を所有していた地元の顔役が、父親である道呉どうごという名の男を回樹に飲み込ませてからだった。調査を認めてもらっていた分、彼の申し出は断れなかった。
 道呉はこの辺りを纏め上げていた男で、一帯の人間に慕われていた。それ故に、道呉の遺体を回樹に飲ませる日は、沢山の人間が参列した。痩せ衰えた老人の身体が、巨大な人間の膝に飲み込まれていく様を、人々は涙と共に見送った。
 そして、これまでに無い規模の転移が起こった。
 今までは妻から夫へ、父から娘への転移だった。一対一の愛情だ。しかし、道呉を慕っているものは多かった。娘や息子は勿論、道呉の介護を担っていた使用人から、道呉の為なら命も惜しくないという村の青年まで、沢山の人間が回樹を愛するようになった。道呉という男の人徳が窺い知れる結果だった。
 道呉事件と名付けられたこの一件があってから、回樹の調査は難しくなった。回樹を愛する人々が、この樹の所有権を主張し始めたのだ。長い間回樹についての調査を行っても何も分からなかったのだから、ここらでおいとま願いたいというわけだ。
 研究者たちも国も激しく抵抗した。だが、道呉の一派も譲らなかった。調査の中断を求める一方で、道呉の一派は回樹のことを周りに伝えた。
「愛しいものの亡骸なきがらを回樹に預ければ、その者は決して滅びない。道呉はまだあそこにいる。自分らを愛してくれている」
 その言葉を信じたのは一部の人間だけだった。悲嘆に暮れ、天国にも来世にも大切な人を託せなかった人々は、亡骸と共に回樹に集った。そうして回樹を愛するようになり、救われた。回樹を愛するようになった人間は、言葉によって回樹を広めた。そうしてまた、回樹に救いを求める人が増えていくのだ。
 愛情を取り込む回樹の性質が原因で、回樹を守ろうと動く人間はどんどん増えていく。静かに、けれど確実に回樹の根は伸びていった。回樹によって救われた者の噂は、さざなみのように広がり人を呼ぶ。何しろ回樹は大きかった。その全てを見張ることは出来なかった。
 丁度一年が過ぎる頃に、回樹の調査が打ち切られた。
 不自然なほどスムーズに、回樹から一切の手が引かれた。だが、回樹の性質を理解した人間にとっては、これは当然の流れだった。愛する人間を人質に取られたようなものだ。そう呼ぶには少し甘やかな流れだったが、そう考えるしかなかった。
 回樹は最愛の恋人であり、親であり、子供であった。
 
「……実際のところ、この国にどのくらい回樹を愛する人間がいるんでしょうね。今の回樹の扱われ方を見れば、相当権力を持った人が回樹を愛していることは分かりますが」
「……そう考えると、少し気味が悪いですけどね。他人の愛情に寄生しているだけじゃないですか?」
「私もそう思いますよ。その点もかなり回樹は植物なんだなーと思います。植物の多くは動物を使って種子を散布してもらいますよね? 果実を鳥が食べて、排泄を通して遠くまで……。回樹にとって人間が鳥です。そして、種が言葉。回樹を広める言葉。肝心の果実が愛だ。利用されてると分かっていても、私達はその味から逃れられない」
 律は面白がっているような口調で言う。実際、回樹の生態は興味深かった。およそ植物には見えない外見なのに、あれはやはり『樹』であるのだ。その点は林業者が正しかったことになる。
「……回樹の第一の性質として、死体を呑むことがあります。第二の性質が、呑んだ死体の愛情を自らに移すこと。そして、第三の性質として、その存在を広く知らしめたくなる、というのが上げられているそうですよ。これは第二の性質と極めて似通っているので、改めて取り上げられることもないんですが。でも、私はこれこそ回樹の一番重要な性質だと思っていますよ。回樹が個人的な墓標になってしまったら、それ以上の広がりがない。だから、新しく回樹を愛そうという人間を拒まない。だから、私が行ったときもスムーズに受け入れてもらえました。きっと初露の両親も優しく受け容れられていますよ」
 回樹の保護団体の人々は結構な人数がいた。彼らは交代で回樹の管理を行っているというから、実際はもっと多いのだろう。回樹の大きさは五年前から成長していないが、その影響力はどんどん大きくなってきている。
 現れた律の事情を聞いた彼らは、回樹に向けるのと同じいつくしみの目を律に──そして、律が運んできた初露に向けていた。まるで、千見寺初露までもが自分達の愛の対象であるかのように。性質だけを追えば、ただの共同墓地でしかないものが、特別な意味を持つ。
「それじゃあ、尋常寺さんは自分の恋人への愛情を、回樹に転移させる為に遺体を盗み出したのですか? ……彼女のことを愛していたから」
 早島が苦々しく言う。
「千見寺さんのご両親からご了承が得られなかったから、あなたは遺体を盗むしかなかった。そうなんですか?」
 彼女は回樹のことを調べる際に、色々な事例をの当たりにしたのだろう。回樹に対する愛情の転移がまことしやかに囁かれていても、あの得体の知れないものに自分の大切な者の遺体を飲み込ませることに抵抗する人間は多い。回樹のせいで遺族間が対立する例はままあるのだ。ややあって、律は言う。
「少し違いますね」
「……どういう意味ですか?」
「初露の家は古風でしたから、回樹に娘を飲み込ませることに同意しなかっただろうなっていうのが犯行の動機ではあるんですけど。少し違う。そんなにいい話じゃないですよ」
 ままならない話を語る段になったのに、律の口元は何故か微笑んでいた。自分でも、どうして笑っているのか分からない。まるでとっておきの秘密を教える時のように言う。
「私の動機は、愛じゃないです」
 
 交際四年目に差し掛かる頃から、少しずつ二人の間は噛み合わなくなっていった。
 恋に落ちた時とは逆だ。気にならなかったことが気になるようになり、今まで美徳だと思っていたところが、ゆるせない汚点に変わる。会話をすることに気を張るようになり、居心地の悪い時間が増えた。
 倦怠けんたい期だったのかもしれない。嫌いになったわけではなく、上手くいかなくなっていた。そのことに、初露はあからさまに焦りをみせた。この時も二人の為に頑張っていたのは初露の方だった。彼女は二人を終わらせたくなかったのだろう。
 ただ、そのやり方が功を奏したとは言い難い。初露がやったのは度を超えた束縛と、気を引く為の狂乱だ。何度スマホを壊されたか分からないし、何度浮気をちらつかされたか分からない。知らない人間を家に連れ込まれることに怒り狂えたのは最初だけだった。初露が満足するほどの怒りを見せるのには体力がった。
 初露が馬鹿だったとは言わない。がむしゃらに繋ぎ止められたことで救われた部分も沢山あった。ただ、それに付き合う体力が無かった。
「怒ってる?」
 大喧嘩をした後で、初露は決まってそう尋ねた。採点でも待つような顔で、不安そうに言う。
「怒ってない」
「嘘だ、怒ってるもん」
「怒ってないって!」
 大声を出すと、初露の身体が大きく跳ねた。唇を噛み、痛みに耐える初露は、傍目はためから見ても哀れだった。
「……律、ごめん。ほんとは、こんなことになるはずじゃなかったんだ。だから、」
 初露がうつむく。気を引く為に荒れて傷ついて、でも反省している初露。自分の至らなさに気づき、彼女をないがしろにしていた自分を顧みる律。役割分担は決まっていたし、何度も繰り返していたことだった。雨を降らせて無理矢理地面を固めるような対症療法で、二人はなんとか関係を保っていたのだ。ここまではお決まりの流れ、儀式のようなものだった。律が次に言うことは決まっている。
「大丈夫。分かってる。……初露、好きだよ」
 その言葉で、初露がほっと顔をほころばせる。さっきまで散々傷つけられていたのに、律のその言葉だけですっかり自分たちが『大丈夫』に戻ったのだと思い込んでいる。何かを了解する為に伸ばされた手の爪が、丸く綺麗に整えられている。かつて愛しく思っていた要素は、変わらずそこにある。
 律は初露の手首を掴み、相変わらず形の良い耳元に囁いた。
「怒ってないって言葉は信じないのに、好きだよって言葉は信じるんだね」
 初露の身体が硬くなる。予想外の角度から差し込まれた言葉が、彼女の心を的確に傷つける。この場所は律にしか触れられない。もっと傷つけばいい。
「傷つくくらいならやんなきゃいいのに。ほんと、初露はアホだなあ。あんたの悪意なんて爪でひっかくみたいなもんだけど、跡は残るしちゃんと痛いよ」
 初露の顔は真っ白になっていた。噛みしめた唇だけが不自然に赤い。それを見て、少しだけ胸がすく。
「まあいいけどさ。これから二時間くらい何も考えないでいようよ。これ以上言い合いになったら、駄目になっちゃうかもしれないからさ」
 そう言いながら、なんだか泣きそうになった。このに及んで涙の一粒もこぼれないことが悔しかった。
 
「何がいけなかったのかは分からないんです。確かに忙しかったですけど、初露との時間を取っていなかったわけじゃなかったですし」
 殆ど初対面である早島に、こんなことまで言っているのがおかしかった。あの頃からずっと、律は誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれない。
「千見寺さんとはそれからも暮らしていたんですよね?」
「暮らしてましたよ。でも、こんなことになっちゃったから、私もあんまり家に帰らなくなって。それでまた初露が怒るんですよ。この繰り返し」
 取調室のちゃちなパイプ椅子に寄りかかって、足を伸ばす。
 こうして、崩壊がやって来た。随分あっさりとした、凡庸な破局だった。
 
 その日、初露はタオルを巻いたままの姿でソファーに寝転んでいた。何をするでもなくテレビを眺め、湯冷めも構わずにボーッとしている。腕も脚も惜しげもなくさらされていた。元に戻っただけなのに、決定的に失われてしまったものが痛いくらいだ。
 カレンダーを確認してから、初露の背後に回った。なるべくいつも通りに、律は言う。
「お誕生日おめでとう。初露。二十八歳だっけ」
「……そうだよ」
 言いながら、初露はタオルを床に落とし、ワンピースタイプのパジャマに着替える。遙か昔に律があげたものだ。肘の部分の生地が薄くなっている。
「私の誕生日が世界で一番嬉しい日だって、まだ言ってくれる?」
「言えるよ。……世界で一番嬉しいし、この世界で一番初露が好き」
 その言葉に嘘はなかった。この世界で一番、千見寺初露を愛している。
 けれど、その愛は消去法だ。他に高得点を取る人間がいないから、四十点の人間が冠を戴いてしまうような寂しい話だ。
 初露だって気づいている。その冠の重さに耐えられないほど、自分が軽くなっていることを。本当に申し訳なく思っている。でも、どうしたらいいか分からなかった。
 この世界で息をしている限り、一分一秒ごとに終わっていく。まだ律の中に残っている愛情さえも、爪を立てられて削られていく。なら、自分はどうしたらいいのだろう?
「律」
 気づくと、初露が目の前に居た。濡れた髪から水滴が落ちるのも構わずに、律の肩を掴んでいる。何、と律が言うよりも先に、初露が言った。
「……私、子供を産もうと思う。というか、産みたい」
「え? ちょっと待って。……何言ってんの?」
「……この間、新しく法律が出来たの知ってる? 今まで人工授精の対象者は結婚してる男女か事実婚をしてる男女だったけど、ここに同性カップルも入るようになったの。私と律なら人工授精を受けられる。六年以上も住めば認められる、きっと」
 初露の目は本気だった。冗談なんか少しも無い。ひく、と喉が鳴った。
「……どうしてそうなんの? え、それ、私に聞いてどうするの?」
「律と私のことだからだよ。私、律との子供が欲しい。そういう未来を考えちゃ駄目かな」
「……駄目って、わけじゃないけど」
 口ではそう言いながらも、心の底から拒絶していた。延長し続けてきた関係も、カンフル剤のように繰り返された大喧嘩も、それでもこの家に住み続けていた罪も、全部うとましかった。ここに来て初露との未来を考えられるほど、尋常寺律の中に愛情は残っていなかった。
 だからだろうか。律の口から、自分でも信じられない言葉が出た。
「…………ていうかそれ、私の子供? 愛せないよ」
「そんなの分からないよ。きっと、律は愛せると思う」
「それはそうかもしれない」
 律が言うと、初露が希望をもって顔を上げる。ただ、そこに続いた言葉は、彼女の一切を打ち砕いた。
「愛情なんて努力だからね。初露が産むその子供を欠片も愛せなくっても、私は上手くやると思う。でも、そんなことしたくない。絶対に」
 
「ここから、少し個人的なことをお尋ねしてもよろしいですか」
「いいですよ。何でも聞いてください」
「千見寺さんと子供を育てる選択肢は考えられなかったんですか?」
「どー……です、かねえ。欲しかったですよ。初露の子供。見てみたかった。でも、そこから背負っていけるかとか全然考えたことなかったから」
 他人事のようにそう回想する。自分でも、あの言葉の意図がよく分からない。
「初露と知らないやつの子供じゃんとか、思ったのかもしれないですね。こういう形で子供を持って幸せになってる人たちも沢山いるのに。どうしてそう思えなかったんでしょう。よく分からないです。それとも本当に初露に冷めてて、責任が発生するのが嫌だったのかな。分からないです」
 もしあそこで初露の話をちゃんと聞いて、真剣に向き合っていたらどうなっただろうか。答えの出ない問いをぐるぐると考え続ける。
「でも、はっきり思ったことがあるんですよ。……生まれる子供が男だったらヤだな、って。この感覚、分かるかな。分かんないかもなあ」
 何にせよ、今となってはどうでもいい話だ。向き合っていようが向き合っていまいが変わらない。
 初露が事故に遭ったのは、会社に向かう道すがらだった。時間をきっちり守る初露は、いつも通りの電車を降り、信号待ちをしているところで事故に遭った。横転したバイクに突っ込まれ、そのまま跳ね飛ばされたのだ。
 たとえあそこで律がちゃんと初露の話を聞いていても、この未来は変わらなかっただろう。どんなに悲しくても、どんなに嬉しくても、初露はちゃんと同じ電車に乗る。結局、初露が子供を産む未来なんてなかったのだ。
「知らせを受けて最初に思ったことが何だったか、一生忘れないと思います」
「……何ですか?」
「『〆切前に死ぬなよ』ですね。私、一年越しにやってた連載がそろそろ終わるところだったんです。手間も掛けてましたし、愛着もあったし、完成したら傑作になるだろうと思ってました。で、最終回の原稿をやってる最中にこれです。正直、勘弁してくれって思いました。今じゃなかったらいつでもよかったのに、って」
 そう思った瞬間、自分でも引いてしまった。仮にも恋人が死んだというのに、間の悪い通り雨のような扱いをしていいはずがない。自分はこれを不適切な思いだと理解している。不誠実だし、初露が可哀想だ。でも、最初にそう思ってしまった事実は変えられないし、今でさえそう思っている。死ぬのなら、もう少し後にしてほしかった。
 それでも、律は原稿を放り出して病院に向かった。初露の為なら少しくらい原稿が遅れてもいいと思った。このくらいの遅れなら取り戻せると思ったから、病院に行ったのだ。
 病院で死んでいる千見寺初露を見て、家の首吊りのことを思い出した。結局、幽霊もたたりもラップ音も無かった。だから、初露が夢枕に立ってくれることも無いのだろうなと朧気おぼろげに理解した。
 初露と自分の関係が変わることは、もう無いのだ。
 初露の両親が泣いているのを見る。同居人で親友である律には、是非とも葬儀に参列して欲しいとのことだった。なるほどな、と思う。こうなるのか。思っていたよりもいい待遇だった。これ以上のものはない。
 初露の遺体は彼女の実家に運ばれた。長らく一緒に暮らしていた大親友である尋常寺律さん、は、苦も無く千見寺家に入り込むことが出来た。出来る限り葬儀の準備をしたいと言うだけで良かった。
 律は、いつぞやの時のように初露の部屋に泊まることになった。あの時と同じように、客用の布団が敷かれている。律は初めて、その布団に寝転んだ。
 隣のベッドで初露としたことを思い出しても、まるで心が動かない。自分がどうしてここにいるのかも分からなくなる。愛情か、それとも義務か。──誰かに教えてほしかった。
 そこで改めて回樹を調べた。
 回樹は死体を喰う樹である。人の形をした彼岸である。人間の死体を吸収し、愛情の転移現象を起こす。こうして見ると、回樹はとても生き物らしい性質を備えていた。実によく共生している。死んだ生物の愛情を引き取り、カッコウよろしく代わりに愛を受けている。それが、回樹が生き物である証明にも思えた。回樹はどこまでも利己的なのだ。
 それでいて、回樹は生者が墓標に求めるものを全て備えている。回樹に死体を託せば、愛は不滅だという。愛する人がそこにいることを確信することが出来るという。
 回樹とは死者への愛そのものと言っていいかもしれない。
 ネットには回樹にまつわる体験談が沢山見つかった。多くは回樹によって救われたという記事や、相も変わらず回樹をアメリカの送り込んだ新兵器だと断じている陰謀論めいた記事だったが、その中に気になる話が出ていた。回樹にまつわる性質で、今まで取り沙汰されていなかった部分だ。
 その記事を読み終えた三分後には、遺体を盗むことを決めていた。
 
「その記事には一体何が?」
「回樹は愛情の転移を起こします。ただ、例外もある。その記事で紹介されていたのは、回樹に遺体を飲ませたのに、回樹への愛が発生しなかったケースでした」
「そんなことがあるんですか? 回樹に例外は無いのだと思っていましたが」
「簡単な話ですよ。回樹はあくまで吸収した死体への愛情を引き継ぐんです。思い入れの無い遺体を回樹に飲ませたところで、回樹を愛するようにはならないんです」
 
 その記事には回樹を愛するどころか嫌悪をもって接するようになった遺族の話が出ていた。愛する者の遺体を飲み込んだ回樹は愛情を引き継ぐが、愛されていない者の遺体を飲み込んでも、そこにあるのは虚だけだったのだ。
 転移現象が起こらなかった者の中には、配偶者に対して精神的なDVを加えていた人間がいた。これはまだ分かりやすい方で、傍目から見れば幸せそうだった家族が、回樹を愛することが出来なかった例もあった。彼らの家庭には何の問題もなかった。
 回樹はとても冷静に全てを判定していた。およそ数値に変換出来ないはずの愛というものを、綺麗により分けることが出来る唯一のものだった。
 それこそが、律の求めているものだった。
 犯行は、午前二時に行われた。初露の両親は、寝ずの番に律を組み込んでくれていた。本当の娘のように思ってくれていたからこそだろう。仮眠を取りに行く初露の父を見送ってから、律は遺体に向き直った。そしておもむろにその身体を抱え上げる。
 初露の身体は冷たかった。おまけに固く、えた匂いがした。知らない女の匂いだ、と思った。
 ひるむ自分を無理矢理奮い立たせ、初露の身体を棺から抱き上げる。その拍子に、伸びた爪が初露の身体に傷をつけた。
「あっ、ごめん、初露。……ちゃんと切っとけばよかった。ちゃんと約束したのにな。どうして大切なもの、全部忘れるんだろうね。本当にごめん」
 初露の髪は癖の無いストレートヘアに戻っていた。もう巻かれることのない髪をそっと撫でる。
 昔の律なら、多分このままキスでもしていたと思う。もう二度と初露に会うことが出来ないんだから、数秒でいいから触れ合ってやろうと思っただろう。唇の硬さも気にしなかった。今だって多分出来なくはない。でもそれは一時しのぎの証明でしかない。した方がいいのかな、と考えるくらいのキスならしない方がいい。付き合うことを決めた時のキスは、何も気にせずしたものだった。
 理性が、自分と初露の間を流れて邪魔をしている。これからやることも理性の管轄で、罪滅ぼしの一環でしかないと一蹴されることかもしれない。でも、構わなかった。何故ならその賭けの為に、律は人生を投げ捨てるつもりなのだから。
 酔った初露の介抱をする時の要領で、律は遺体を運び出す。
 外に出ると、雪が降っていた。助手席に乗せた初露にシートベルトを掛け、赤いセダンのエンジンを吹かす。夜が明ける前に、出来るだけ遠くに行かなければならなかった。辿り着くのだ。あの樹まで。
「本当は私のこともう好きじゃないんでしょ」
 恨みがましく言われるその言葉が嫌いだった。どう答えていいか分からなかったからだ。好きだと答えることも、嫌いだとけることも出来なかった。初露を愛することがただの努力になっているのかどうか、自分でももう分からなかった。
 二人で暮らすあの家で、初露も恐らく疲弊していただろう。愛しているのか愛していないのか、終わっていいのか未練があるのか。
 回樹は、その全ての疑問を解消してくれる。
 律の中にあったものが愛であったかもしれないことを教えてくれる。
 墓はただの石だ。死体は肉塊だ。魂はお伽噺とぎばなしだ。
 けれど、心は。まだここにある。あるはずだ。これが死んだ女への義理だなんて思いたくはなかった。あるかも分からない天国への言い訳にもしたくなかった。
 雪道に車を走らせながら、律は走馬燈のように今までのことを思い出す。湧き上がる気持ちが何か、誰か教えてくれと切に思う。
 果たして、数時間後に律の願いは叶った。
 
「だから、動機が愛だってわけじゃないんです。それを確かめる為に、こんなことをしたわけで」
 愛の為に回樹に向かう人々とは違う。墓はただの石かもしれなくて、愛情はただの努力かもしれない。それを確かめに行っただけだ。
「今でも私、連載の最終回を書けなかったことを悔やんでいるんです。あの小説、もう単行本出ないだろうな……。初露がもう少し遅く死んでくれていたらよかったのに」
 まだその言葉を、しっかりと口に出来る。
「仕事のことがお好きだったんですね」
「ええ、そうですね。沢山の人に自分の作品を読んでもらえるのが好きでした。それを思うと、私の行動原理も、回樹の行動原理も変わりませんね。自分の存在が広く伝播するのが楽しくて仕方なかった」
「でも、あなたはそのキャリアを千見寺さんの為に棒に振ったのでしょう?」
「それもどうですかね」
 律が何とも言えない笑顔で言うと、早島が顔を逸らす。
「……これで事情は大体分かりました。それと、あなたの『作品』ですが」
「はい、どうなりました?」
「現時点で既に数十万PVを記録しています。投稿サイトの規約にのっとって大量に削除されていますが、再アップする人間が後を絶たない」
「一応私にはベストセラーミステリ作家って肩書きがありますからね。私の自白はそこそこ読まれて話題になると思ってました」
 新幹線の中で、律は急拵きゅうごしらえで文章をしたためた。
 自分と初露が首吊りのあった事故物件で暮らしていたこと、生活していたこと、そして律が彼女の死体を盗み、回樹に飲み込ませたこと。その全てを文章に書いた。
 そして、自分名義のアカウントで、その文章を片っ端から投稿した。きっと話題になっているだろう。回樹のことについても今までとは段違いに知れ渡っているはずだ。在宅勤務っていいな、と言っていた初露の言葉が蘇る。確かに、小説家という職業はいい。新幹線の中であろうと仕事が出来る。
「どうしてあんなことを?」
「ただの思いつきです。作家なんだから、人生をなげうつ時くらい何かを書きたいじゃないですか。私と回樹はよく似ている。これだけセンセーショナルな文章なら、きっと広まるだろうなって。そう思ったら我慢出来なかった」
「あなたの投稿によって、今まで回樹に対して否定的だった人間が考えを改めるでしょう。道呉事件の時のように」
 早島の言う通りだ。律は自分の影響力を過小評価しない。尋常寺律が回樹を肯定すれば、少しだけ流れが変わる。これでまた、更に回樹の根は広く張るだろう。知るべき人間が回樹を知り、同じように愛を留め置くだろう。いずれは回樹を愛する人間だけが残り、全ての愛は回樹に飲み込まれることになるのかもしれない。
 ややあって、早島が言った。
「……尋常寺さん。最後に一つだけいいですか?」
「何ですか?」
 質問の内容が分かりきっているのにも拘わらず、律は笑顔で首を傾げる。
「あなたは、愛を確かめる為に回樹に遺体を飲ませた。そこまでは分かりました」
「はい」
「……転移は起こったんですか?」
 回樹のことを広めたのは、作家としてのさがか、回樹の性質なのか。
 尋常寺律は千見寺初露を愛していたのか、そうではないのか。
 律は答えない。答えを教えない。その代わりに、優雅に微笑みながら、言った。
「でも、今だから思うことがあるんですよ。本当に愛していたとか愛していないとか、本物なのか偽物なのかは関係なかったのかもなって。頑張って千見寺初露を愛し続けようっていう気持ちは、もう愛って呼んで差し支えないんじゃないかって。どうですかね。早島さん」

***

その他の収録作は単行本・電子書籍にてお楽しみください。

真実の愛を証明できる「回樹」をめぐる、ありふれた愛の顛末。
骨の表面に文字を刻む技術「骨刻」がもたらした、特別な想い。
すべての映画には魂があった。「BTTF葬送」への抵抗の物語。
人間の死体が腐らない世界で、あるテロリストが達成した「不滅」
奴隷制度下のニューヨーク、白人と黒人と宇宙人の融和は「奈辺」
回樹に愛を託した人々は、年に一度の「回祭」を催していた――。
誰も思いつけないアイデアと、誰でも思いあたる感情の全6篇。

『回樹』刊行記念・斜線堂有紀さんサイン会が
4月2日(日)、ブックファースト新宿店にて開催!
詳細はこちらの記事をチェック↓↓↓


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!