見出し画像

ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作『ホライズン・ゲート 事象の狩人』冒頭試し読み公開!

第11回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作矢野アロウ『ホライズン・ゲート 事象の狩人』が刊行されました。ブラックホール相補性時間SFを巧みに絡めた世界観、詩的な小説表現が高く評価され受賞にいたった期待作です。 本欄では、その冒頭5章までを公開いたします。

矢野アロウ
『ホライズン・ゲート 事象の狩人』

定価:2090円(税込)/四六判並製/早川書房
装画:たけもとあかる 装幀:坂野公一(welle design)




 砂漠に上る太陽の匂いを覚えている。
 夜が染み込んだ紫色の砂丘を朝日がなでると、露に濡れた石英質の砂はだいだい色に輝き始め、石のエッセンスペトリコールほのかに匂い立つ。
 どこか懐かしく、温かい匂いだけれど、そのほとんどは砂に含まれる細菌や微生物が、生き物を分解したときに作り出す匂いに起因している。──つまりは、死の匂いだ。
 死を懐かしく感じるなんて何の冗談かと思うけど、いよいよ自分の命が尽きるとき、まごつかないためと思えば納得もできる。
 実際、銃弾を受けて死にかけている動物は、奇妙に落ち着いて見えるときがある。あれは彼らが普段から、夜が朝に変わるときの匂いを嗅ぎ慣れているからなのかもしれない。自分に訪れた終わりのときを、何かが始まる夜明けと信じているから、あれほどまでに落ち着いていられるのかも。
 すべてはいまから半世紀以上も前、惑星カントアイネにある私の故郷、ヒルギスの空を見上げた瞬間から始まった。
 あの日も夜空は、悲しいほど満天の星に彩られていた。数多あまたの光が輝いていたけれど、私の存在を知っている星は一つもなかった。
 孤独な景色だった。おまけに、狩りに失敗した疲弊が、夜寒の空気と一緒に深々しんしんと両肩に降り積もっていく。
 ただ、足を止めるわけにはいかなかった。幼く、まだ体の小さい私が、零度近くまで気温が下がった砂漠の夜に歩みを止めてしまえばどうなるか、祖父じいさまに口酸っぱく言われていなくても、身を切るような冷気で直感的にわかる。せめてスナジカの一頭でも仕留めていれば、体を割いて内臓を抜き取り、その中で寒さをしのぐことができたのだけれど。
 結局、私は夜通しヒルギスの暗い紫色の砂の上を歩き続ける羽目になった。めったにないことだ。私は祖父さまと父さまの血筋を引くレイ家の娘、射手アーチヤーとしての腕前には相当な自信を持っていた。でも、その日はまるで私が狙っていることを誰かが知らせてるみたいに、スナジカや野良のウサギの類でさえ、引き金に指を置いただけで、こちらの気配を察して逃げてしまうのだった。
 祖父さまの苦虫を嚙み潰したような顔がまぶたに浮かび、足取りが重くなる。いっそこのまま砂漠を歩き続けてアラウーシ山を越え、常世とこよの国につながるという海まで行ってみたいと思った。そこまで行けば、また父さまや母さまに会えたりするのだろうか。魂が光となって静かに漂う、海という不思議な場所。私はまだ一度もそれを目にしたことがなかった。
 かじかむ小さな手をこすり合わせながら、私はようやく集落が見える砂丘のいただきにたどり着いた。深い藍色だった夜空は暁の薄紫色に染まり、夜の砂漠の道しるべになってくれた星々は、その姿を隠そうとしていた。
 ふいに何かに呼び止められたような気がして振り向くと、アラウーシの山並みから、朱色の太陽が顔を出したところだった。曙光しよこうに照らされた砂の光が足下から立ち昇り、私は眩しくて思わず目をつむった。そして、あの匂いを嗅いだのだ。どこか懐かしい、思い出の場所から立ち昇ってくるような、太陽の匂いを。
 朝日に照らされた左腕が、肩の辺りからジンジンと熱を帯び始める。
 ひさしを作った指の隙間から、砂漠が燃え上がるのが見えた。夜の紫が朝の金色に燃え立つ瞬間──この光景を、一生忘れないだろうと私は思った。
 砂丘を下り始めるとすぐ、集落の様子がいつもと違っていることに気づいた。普段なら狩った獲物の品評会さながら、年かさの悪ガキたちが広場に出て、あれやこれやとまだ小さい私をからかったものだけど、この日は違った。太陽はもう顔を出しているというのに、集落はまだ寝静まっているみたいに、一つも物音を立てない。息を潜めているかのような沈黙が、重く吹き溜まりになっている。
 集落の入口に近くなると、その原因らしきものが見えてきた。集会所がある広場に、見慣れないオートライドが二台停車していたのだ。黒いボディに赤い星のマーク──カントアイネ国際連合軍の軍事車両だ。
 私が車の横を通りかかると、運転席のヘルメットを被った男は一瞬驚いたような表情を浮かべ、それからにっこり、私に微笑みかけた。
 ヒルギスを訪れるというのに、何の警告も受けなかったのだろうか。男は両手をハンドルに置いたままで、隙だらけだった。これなら幼い私でも、二秒もあれば頭に三発撃ち込める。
 広場を過ぎて小屋に戻ると、戸口の前に見知らぬ男が立っていた。黒ずくめの服を着ているけど、星のマークはどこにもない。奇妙な六角形の帽子を被っていて、私を見ても両手をポケットから出そうとしなかった。私は腰に結わえたガンカバーに手を掛けた。
 そのとき戸口が開いて、祖父さまが姿を現した。ヒルギスに伝わる草色と橙色に染められた葬礼服に身を包み、神事に使うバンダナを額に巻いている。
 祖父さまは黒ずくめの男を指して、海の向こうから来た人間だと言った。それから、「シンイー、大物を狩りたいか?」と私に尋ねた。
 もちろん、私は頷いた。それで決まりだった。
 その日は昼まで泥のように眠り、目が覚めると祖父さまが焼いてくれたスナジカの肉にかぶりついた。濃厚な脂が口の中にあふれ、干からびた私の体に、再び獲物を追うための力がみなぎっていく。
 祖父さまは納戸から古い行李こうりを取ってくると、その中から一挺の銃を取り出した。父さまが使っていた長尺の銃だ。
 ハッチョウヅメと呼ばれる巨大な甲殻類のツメから作られたその銃は、頑強でありながら中空で軽く、射程の長さもあって長征に用いられることが多い。祖父さまはオグロサイの尻尾で作ったブラシと羽毛で休眠中の垢をこすり落とすと、最後にヒルギスソウの油で全体を磨き上げ、それを私の背中に結わえてくれた。
 ハッチョウヅメの銃身は引きずりそうに長く、私の背丈では前かがみにならないと歩けたものではなかったが、誇らしい気持ちで胸がいっぱいだった。ヒルギス人にとって旅立ちに与えられた銃は生涯のパートナーであり、おそらく、私の年齢でこれを与えられた人はいない。長征は普通、成人の儀式と同時に行われるからだ。
 小屋を出ると、あの黒ずくめの男が表で私を待っていた。
「達者でな、シンイー」と祖父さまは言った。
 私は獲物を仕留めたら、すぐ帰ると言った。祖父さまは柔らかな笑みを浮かべ、ゆっくり首を振った。祖父さまのそんな顔を見たのは初めてだった。
「旅が始まるのだ、愛しい子よ」
 祖父さまの分厚い手が、私の頭を優しくなでる。固くひび割れた指先が一瞬、ためらいがちに私の頭の傷に触れたのは気のせいだったろうか。
 祖父さまは、孫をよろしく頼むと言い残し、小屋に消えた。旅立つ狩人の背中を見てはならないのが、ヒルギスの習わしだった。
 小屋に背を向け、一歩ずつ砂を踏みしめていくと、鼻の奥がツンと熱くなったけれど、見知らぬ男の物憂げな眼差しに反発するように、ぐっと胸を張った。
 その途端、背負ったハッチョウヅメの銃口が砂に触れ、慌てて前かがみになった。それほど私は幼かったのだ。この旅路がどこへ向かうのかも、まるで想像できないほどに。

「ミス・シンイー、コーヒーが入りました」
 若い男の声に、微睡まどろみから抜け出した。地平面探査基地プラツトフオーム時間で午後三時。連邦標準時は知るよしもないけれど、百時間を超える時差は、もう若くない私には、けっこうこたえる。
「カフェイン多めでしたよね」
 声の主は先週配属されたばかりの青年で、名前は確か、スグルといったか。
 コーヒーの礼を言おうとして、ふと奇妙な感覚におちいった。首を傾げてこちらを見る彼の幼い仕草に、すでに懐かしさを覚えたのだ。
 怪訝けげんな表情を浮かべたスグルに、何でもないと首を振った。次に会うとき、この目の前の青年との関係がどのように変化するのか、興味深いことであると同時に、恐ろしさも感じる。
「そういえば、今週はトリッシュ大佐の没後五十周年の式典があるとか」
「私は出られないから、よろしくね」
「了解しました」
 敬礼するスグルの肩を叩き、私はカップを置いて立ち上がった。背中でハッチョウヅメの銃が乾いた音を立てる。不意にトリッシュがヒルギスまで私を迎えに来た日のことを思い出した。銃身も銃床も、あのときのまま。でも、中身はごっそり入れ替わっている。まさか、星の獲物に普通の弾丸は通用しない。
 私が初めて見た海は、故郷を離れる宇宙船から眺めた星の海だった。ヒルギスの砂漠を取り囲むように、淡く静かに輝いていた。

 私たちのプラットフォーム、ホライズン・スケープ側から連絡橋を渡ると、遮蔽板デイフレクターの向こうに、耐重力探査船トード号の巨体が見えてくる。
 喉元の丸くて巨大な燃料タンクが船名の由来だけれど、ヒキガエルトード鳴嚢めいのうがないと責任者が知ったのは、すでに船体の登録を済ませた後のことだった。
 耐重力探査船の常として、トード号もまた反物質エンジンを積んでいる。でも、タンクの中身はほとんどが、ただの水だ。噴出剤としても使われる正物質に比べ、持ち込む反物質はごくわずかでいいらしい。
 減圧室エアロツクに入り、酸素注入のルーティン。耐重力宇宙服Gスーツを着用し、ボルトアクションを繰り返す。
 据銃きよじゆうから排莢はいきようまで、この一連の動きが減圧準備プリブリーズの役に立つ。十サイクルを四セット。それが終われば、立った状態から伏射姿勢への移行を丁寧に何度も繰り返す。
 プリブリーズには、合計一時間以上かける。Gスーツの性能が上がったといっても、基本をおこたると体から窒素が出ていってくれない。
 私の場合、指先の感覚が狂わないよう、特にスーツ内の圧力を下げているから、少しでも手を抜くと、ハッチを開けた途端、減圧症を発症してしまうなんてことにもなりかねない。
 とはいえ、幼いころから呼吸のように繰り返してきた動作だから、苦ではない。むしろ、仕事前のウォーミングアップとして、欠かせない一連の運動になっている。
 でも、私の相棒、イオにとっては事情が違っているようだ。
 イオは仕事の前にあくせく動くことを良しとしない。代わりに一晩かけて、船内でじっくりGスーツを体に馴染ませる。これから脳味噌を使わないといけないときに、筋肉に無駄な酸素を消費させるなど、愚の骨頂というわけだった。
 ハッチをくぐり、銃座兼操縦席ガンピツトのシートに、スーツの膝部分を固定してみる。若いころと違い、これがないと関節のきしみを止められない。
 いずれ、トリガーに置いた指もかなわなくなると思うと、喪失感で胸にうろが空いたような気持ちになる。老いが怖いのではない。この時間から弾き出されるのが怖い。
 モニターに、降下ユニットの点検を終えたイオが、祈りを捧げる姿が映し出されている。
「そろそろいい?」と尋ねると、「うん、いいよ」といつもどおりの返答があった。
 ブリッジに合図を送ると、間髪を容れずカウントダウンが始まる。
 なんともあっけない船出。出航も五回を超えると、見送りの姿はまばらだ。慣れなのか、それとも、ますます大きくなる時間のギャップが、私たちをすでに過去の人間にしてしまったのか。
 トード号をホライズン・スケープから切り離すと、即座に反物質エンジンを吹かし、降下スピードが速くなりすぎないよう、らせん軌道を維持する。
 ここから光子半径まで、急がば回れの慎重な運転が要求される。Gスーツを着用しているとはいえ、体感重力加速度が一〇Gを超えると、意識がブラックアウトしかねない。
「虹だよ、シンイー!」
 このときばかりはイオも屈託のない声を上げる。船窓が七色に輝いて見える。
 故郷の虹は、降雨を告げる祝福の象徴だった。でも、ここから見える虹は、時間に架かる虹だ。赤方偏移と青方偏移の狭間で、光は引き伸ばされ、七色に輝き始める。
「でゅだ、でゅだ、でゅーだっ。でゅだ、でゅだ、でゅーだっ」
 モニターがイオの歌声スキヤツトを拾い上げる。『ピンクロン・ノーマン一家の冒険』というドラマのオープニングソング。地上で派手にやらかしたノーマン一家が、地下世界に新天地を求めるべく、巨大ドリルを備えたモグラ型探査機で地中を掘り進むという、ナンセンスコメディだ。
 文字どおり、天と地ほどもいまとは状況が違っているけれど、この曲を自然と口ずさんでしまうイオの気持ちもよくわかる。ピンクロン・ノーマンと私たちの状況は、多くの意味でとてもよく似通っている。



 惑星カントアイネからホライズン・スケープに連れてこられて、二十四時間の検疫が明けた、すぐ後のことだった。
「よう、トリッシュ。お前、いつからガキの使いになったんだ?」
 後ろから追いついてきた男が、私の前を歩くトリッシュの肩に腕を回す。軽口に反して、私を見下ろす目は決して笑っていなかった。
「彼らがこの子を送り出したことに敬意を持て、アルビス。それはつまり、この船の誰より、この子がうまくやれるということだ」
「一生遊んで暮らせる金をもらえるなら、やつら、どんなガキだって喜んで差し出すだろ」
 通路を歩きながらトリッシュは、「嘘だ」と私にささやいた。「十分な報酬を用意したのは本当だが、君のお祖父さんは一銭も受け取ろうとしなかった」
 通路を歩く幼い私には、物珍しげな人々の視線が、ずっとまとわりついていた。さしずめ未開の地から連れてこられた野蛮人といったところだろう。
 もっとも、あのころの私なら、そう言われても仕方なかったかもしれない。検疫室を出てからというもの、私は目を白黒させっぱなしだった。ホライズン・スケープの中ときたら、見たこともないつるつるの素材や金属ばかりで、見慣れた木や動物の毛皮など、自然の素材でできたものなんて何一つなかったからだ。
 滑らかな床に目を奪われながらトリッシュの後ろを歩いていくと、やがて通路はつきあたりで大きな通りにぶつかった。
 角を曲がったときの光景は、いまでも鮮明に思い出すことができる。なだらかな弧を描く広い通路が、ずっと上のほうまで続いていた。まるで、水車の中に入ったみたいだった。あるいは、回し車の中のハツカネズミになった気分──とでも言ったほうが、あのときの私にはふさわしいだろうか。
 そこはホライズン・スケープの外周を巡る大通りで、いわばプラットフォームの大地に当たる部分だった。反物質エンジンを利用した回転で遠心力を生み出し、人々は巨大な輪の内壁を地面に見立てて生活しているのだ。
 でも、それはヒルギスから出てきたばかりの私には理解しがたい光景で、はるか遠くに見える、ほとんど壁面のようにそそり立った坂道を、どうして人間が転がり落ちずに歩けているのか、不思議で仕方がなかった。
 混乱したままトリッシュの後を追い、彼に続いて頑丈な扉の向こうの部屋に入ると、嗅ぎ慣れた匂いがして、ようやく私は少し落ち着くことができた。
 それは焼けた金属と火薬の匂いだった。部屋の奥には透明な壁で区切られたレーンが五つ並んでいて、故郷のものとはずいぶん違っていたけれど、射撃訓練の施設であることは一目でわかった。
 部屋の入口に、ぞろぞろと大人たちが集まってきていた。アルビスと呼ばれた、さっきの男の姿も見える。
 クモタカチョウの羽根で編んだ帽子を脱ぐと、彼らが息をのむのがわかった。もしかすると、それまでヒルギス人を見たことがなかったのかもしれない。それとも、見たことはあったけれど、こんな幼い少女までもと驚いたのか。
 剃髪ていはつした私の頭には、九つの太陽とクモタカチョウの刺青タトウーが入っている。それに、後頭部から額の上にかけて赤黒く盛り上がった傷跡が、頭頂部を左右に分けているのが、彼らの場所からでも確認できたはずだ。
 静まり返った人々を背に、私は武器ラックに近づいた。
 トリッシュが用意していたのは、いかにも荒い銃で、威力はありそうに見えたけど、角張っていて落ち着きがない。試しに右腕一本で構えて五発撃つと、まるで手の中でレンガが暴れてるみたいだった。
 モニターに映し出された人型の的には、着弾を示す五つの光点が輝いていた。すべて胸に当たってはいたものの、ばらつきがある。大人たちの張りつめた気が緩むのを感じた。
「いまのは、君が撃ったのか?」と、トリッシュが言った。
 そんなふうに尋ねるということは、ヒルギス人のことを、いくらかは知っているということだった。
 私が頷くと、「今度は、君の銃で撃ってくれないか」と言われた。結わえていたハッチョウヅメの銃をほどき、再び人型の的に正対する。
 次の瞬間、何が起こったのか理解できた人間がいたとすれば、それは幸せな人だ。少なくとも、自分がどうやって死んだのかを知ることができる。
 五つの銃声が静寂を切り裂き、気づけば、左腕で構えた銃の先から煙が立ち上っていた。まだ馴染んでいない銃床だったので、わきの下が少し痛んだ。
 モニターに映った人型の心臓にたった一つの、それも明らかに一発の弾痕より大きな光点が映し出されると、再び大人たちが息をのむのがわかった。
 それで私は、一目置かれることになった。少なくとも、射撃のあれこれについて、私に指図しようとする人はいなくなった。

 射撃場の一件から数日たったころ、私はトリッシュに連れられて、ホライズン・スケープ最下層にある特別居住区に向かっていた。
 プラットフォームの拡張がいまほど盛んに行われていなかったあの当時、特居区への道のりは、どの区画に向かうルートより、ことさら長く感じられたものだった。
 耐重力製品製造業者メーカーが耐重力装備や機器の開発に血まなこになった結果、ホライズン・スケープは以前とは比較できないほど巨大化し、相対的に特居区への道のりは短く感じられるようになった。でもあのころは、まるで洞窟墓にでも潜っていくような陰鬱さだった。違う世界を歩いているような。
 大人になっていろんな事情に明るくなると、実際に特居区が治外法権的な色合いを帯びた別世界だったと知った。ホライズン・スケープ自体は宇宙連邦に属しているけれど、特居区のみ自治政府の管轄になっていた。自治区画と言えば聞こえはいいが、要するに、連邦とは違う場所だという線引きだ。
 中央エレベーターを最下層で降りて、色合いのとぼしい灰色の通路を下っていくと、冷たい光が漏れる部屋から、低い機械音が聞こえていた。当時は情報分析関連の研究棟ラボも特居区に設置されていたのだ。
 トリッシュはガラスの前に立つと、「護衛を頼みたいのは、あの子だ」と言った。
 彼の視線の先には、当時の私とさして年齢の変わらない、十歳くらいの男の子の姿があった。ガラスにさえぎられたブースの向こう、氷のように青白い照明の下で、大きな機械に取り付けられた、潜望鏡のようなものを覗き込んでいる。
 部屋が冷え冷えとして見えるのは、ライトの色のせいだけじゃなかった。男の子の銀髪のせいだ。
「パメラ人?」
「そうだ。……なんだ、疑ってるのか? なんなら、少し話してみるか?」
 私たちがブースに入っていくと、その子は機械から顔を上げて私を見た。綺麗な顔をしていた。瞳は氷のようなブルーだ。
「この子はシンイー。君の新しい相棒だ」
 トリッシュがそう言って私の肩に手を置くと、男の子は差し出しかけた手を止めて、首を傾げた。
「変だ……運命が二つ見える」
 トリッシュが意味ありげに、私に目くばせした。だからといって、すぐ信じたわけではなかった。射撃場の一件はすっかり有名になっていたから、男の子が私の出自を知っていたとしても何の不思議もない。
「右利きだね。なのに、銃は左で撃つ」
 これも同様。あの一件を知っていれば予測がつくこと。
「それに──」と彼は続けた。「お父さんもお母さんもいない。かわいそうに、亡くなったんだね。酷い戦争。君の目の前で──」
「もういい、イオ。そこまでだ」
 私が震えていることに気づいたトリッシュが、慌てて話を遮る。
 動揺が表情に透けて見えてしまったのだろうか。それをリアルタイムに察知して言葉にしていく能力?
 いずれにしても、パメラの民は嫌われ者なのさ──と、のちにイオは言った。
 占術や予知能力を信じない人にとって、パメラは真実をかたる詐欺師だし、信じる人にとっては、なおさら厄介な存在だ。過去や未来を言い当てられることは、心を覗き込まれるような不快感を伴う。
 故郷を追われ、辺境の星々を転々とするしかなかった彼らが、結局安住の地を得られなかったのはそのせいだ。行く先々でうとまれ、恐れられ、自民族の象徴である美しい銀髪を別の色に染めても、新しい土地が彼らを受けいれてくれることはなかった。
 すべての原因は、脳という器官による、この世界の捉え方の違いだった。
 パメラ人の脳は進化の過程で情報処理能力に変化を起こし、過去や未来をひと続きの事象として認識できるようになったと言われている。彼らは現在を空間的に詳細に捉える能力を捨て、時間を追跡する能力を得たのだ。
 もちろん、脳の構造も変化している。彼らの脳は左右ではなく、前後に分かれている。空間を立体的に捉えるのではなく、連続した時間の中の一枚の絵として捉える。過去から流れてくる粒子だけでなく、未来からこぼれた粒子の軌跡さえ認識する。
 私たちヒルギスの民とは真逆の人種だった。パメラ人は時間の流れの中で自然に進化し、変化した。私たちは人為的に脳に手を加え、無理やり自己を変化させている。
 どちらが正しいとか、間違っているという話じゃない。生き残るために、それぞれがそれぞれの変化を受けいれるしかなかったということだ。
 その後、トリッシュが私たちを置いて部屋から出てしまうと、何となく気づまりな雰囲気になった。あのときの私が知っていた男の子というものは、口より先にこぶしを出す連中ばかりで、イオのように何かを考えながら話すタイプは見たことがなかったのだ。
 潜望鏡のハンドルを握る彼の指は、土さえ触ったことがないみたいに華奢だった。
 私の視線に気づくとイオはにっこりと微笑み──、そして言ったのだ。まるで明日の天気を呟くような調子で、「僕たち、たぶん一緒になると思う」──と。
 その言葉は冗談みたいに、私をこの時空に縛りつけることになった。
 後悔はない。でも、ときどき考えてしまう。トリッシュが村にやって来たあの日、猟がうまくいっていたらどうなっただろうと。
 もしスナジカの一頭でも仕留められていたら、私はあの場所にいなかったはずだ。体長二メートル近いシカを幼い子どもが一日で運べたはずがなく、私は適当な木立か岩陰を見つけてビバークしていたに違いない。
 トリッシュは別の誰かを連れて船に戻り、星の海は私にとって、砂漠の孤独な夜に見上げる慰め以上のものにはなり得なかっただろう。
 そんな一生が幸せだったか、それはわからない。ヒルギスの夜空に散らばった星々の向こうに、どれだけ広大な世界があるのか、想像もしなかった時代にはもう二度と戻ることができないのだから……。

 とにかく、こうして私とイオは引き合わせられた。彼を護衛し、命運を共にする相棒として。
 でも、何から彼を守ればいいのかは、このとき、まだよくわかっていなかった。本当の意味でそれを知ったのは、たった二人で宇宙に放り込まれてからだ。
 そう、私たちは文字どおり放り込まれた。かのピンクロン・ノーマンでさえ、泡を吹いて逃げ帰ってしまうほど巨大な穴ぼこ、その真ん中に。

 出航から船内時間で三十八時間。トード号は、らせん軌道を亜光速で滑り下り続けている。
 隣の座席では、歌い疲れたイオが寝息を立てている。Gスーツのバイザーから覗く、出会ったころと少しも変わらない首筋の細さに、微かな胸の痛みを覚える。
 誰のための痛みなのか、自分でもよくわからない。か細い体で戦うイオを思ってのことか、彼に取り残されていく自分の身を憐れんでか……。
 何度か目をしばたたかせて、イオが意識を覚醒させた。まるで、いまはじめてGスーツを着ていることに気づいたみたいに、体を不自由に動かし、眉をひそめる。
「起きなさい、イオ」と声をかけて、私はガンピットから船室後部に移動した。数時間後の降下に備え、そろそろ栄養補給を始めなければならない。
 船室の調理パネルからアタッチメントを外すときに、左腕が思わぬ動きをして取り落としてしまう。いまだにときどきあるのだ、こういうことが。
 イオはもう慣れたものだから、何も言わずにただ待っている。ヘルメットのくぼみにアタッチメントを取り付けてあげると、バイザー内に突き出たストローから、耐重力仕様宇宙食Gミールが送り出される。カルシウムや鉄分、それに吸収促進用のビタミンC・D群を配合した、特別製の流動食だ。
「まずい」と、イオ。「シンイーは食べないの?」と言うので首を振ると、「僕が下に降りてる間に、何かいいもの食べようとしてるんじゃないだろうね」と半ば本気の恨み節だ。
「我慢しなさい。下でガス欠しないためなんだから」と言うと、ため息混じりに、「母親みたいな言い方だね」と笑われた。
 一瞬で、空気が薄くなったみたいに息が苦しくなる。イオの何気ない一言に傷ついてしまう自分が嫌だ。
 取り繕うように、トード号のOS「ミス・トード」が、ブンと小さく唸りながらモニターを明滅させた。
「間もなく光子半径に入ります」と、無機質な声。
 光子半径──そこで円軌道方向に放たれた光は、重力の呪縛からついに逃げられなくなる。ダーク・エイジによる空間の歪みから抜け出せず、一周回って元の場所に戻ってきてしまうのだ。
 つまり、光子半径で軌道に沿って前を向くと、自分の背中が見えるなんていうSFみたいなことが原理的には起こり得る。
 何となく外部モニターから目を逸らすと、それに気づいたイオが、くすくす笑い始める。バカげた迷信だとわかってはいるけれど、刷り込まれた原体験を払拭するのは、この年齢になってもなかなか難しい。
 旅立つ狩人の背中を見てはならないのが、ヒルギスの掟。自分で自分の背中を見て不幸を引き寄せていたら世話がない。
「大丈夫だよ、シンイー」イオがおかしそうに言う。「君の背中が一周するのなんて、僕ら待ってられないんだから。ほら、もう通り過ぎた」
 外部モニターに目をやると、辺り一面、本当に真っ黒だった。ダーク・エイジの視半径は九十度に達している。水平線が遠い。
「来るよ」と、イオ。
 機体の振動の向きが変わって、反物質エンジンがプラズマの排出を、円軌道方向から垂直方向へ切り替えたのがわかる。
 そして、ダーク・エイジが水平線を越えて、こちらにせり上がってくる。重力で歪んだ星空を、漆黒の沼が飲み込もうとしている。大丈夫だと頭で理解していても、このまま虚無に飲み込まれるのではないかと不安になる。
 実際のところ、帰還不能点は、まだまだ先にあるのだ。いまでやっとシュバルツシルト半径の一・五倍。ここから先に、重力に対抗できる円軌道は存在しない。
 そして、見る見る深さを増していく漆黒の沼に、もうすぐイオは一人で下りていかなければならない。
「事象の地平面の向こう側ってどうなってるんだろう」と、イオが呟く。
 良くない兆候だ。ダーク・エイジの近くでは、思考さえ星に引きずられる。いまからこの調子では、戻って来られるものも、戻って来られない。
 こういうとき、私は決まってヒルギスの射手アーチヤーになったときの話をしてやる。私が最も死に近づいたのは、あの儀式をおいて他にないからだ。
 いや、むしろあのとき、自分の中に死を半分取り込んだような気さえしている。死と無が本質的に同じものなら、確かに私はあれ以来ずっと、深遠なる死の淵を、ぐるぐる歩き回っているだけなのかもしれない。



 ヒルギス人は狩猟の民だ。人間の価値は、狩った獣の大きさで決まる。
 祖父さまも父さまも、ヒルギス史に名を残す狩猟の名手だった。スナジカを仕留めるのに心臓への一撃しか必要としなかったし、父さまなんて子連れのオグロサイと対峙したときには、眉間への連撃で簡単に決着をつけてしまった。本当だ。父さまの肩の上で見ていたから間違いない。砂に血を吸われながら横たわる母親のそばを、子サイがいつまでもまとわりついて離れようとしなかったのを覚えている。
 父さまが子サイにとどめを刺せなかったのは、私がいたからだと思う。
 オグロサイは自分を狙った人間を生涯忘れることがない。仇敵の臭いを嗅ぎつけると、ビバーク中の夜を狙って襲ってくるので、普通子どもであろうと見逃がすことはしないのだ。
 父さまが獲物を逃がしたのは、後にも先にも、このとき一回きりだ。
 集落の中には、あれを父さまの汚点と陰口を叩く連中もいたけど、私はやはりあのとき、子サイが殺されるのを見たくなかったから、狩りの名手としての父さまを思い出すのとはまた違った気持ちで、子サイを逃がしてやった父さまのことを、いまでも尊敬している。
 一方、祖父さまはとても厳しい人だった。祖父さまなら子サイを逃がすことはしなかったろう。いまここで逃がせば、後々成長した子サイが敵となって村の連中を襲うことになるという厳しい現実を、引き金を引くことで私に知らしめただろう。
 祖父さまが私に語りかけるとき、その声の背後に、もっとたくさんの声が聞こえているように感じることが度々あった。そしてその傾向は、父さまと母さまがカントアイネ国際連合との戦争で死んでから、より強くなったような気がする。
 だからなのか、私は祖父さまの声を思い出せない。無言で背を向け小屋に消えていく、やせて尖った肩の骨だけは、やけに鮮明に、まぶたに浮かぶのだけれど……。
 とはいえ、いまの私を作り上げたのは祖父さまで間違いない。射手アーチヤーになるには、たゆまぬ鍛錬が必要で、そこには情の入り込めない領域が確かに存在している。
 祖父さまの言いつけで、砂漠が燃え上がるより早く小屋を出て、クモタカチョウの巣立ちを狙う。
 卵は平均で五個から六個。親鳥の目の前で、巣から飛び出した雛鳥ひなどりたちの首を吹き飛ばしていく。
 一発も外すことは許されない。急所を外せば雛を苦しませることになるし、そうなると途端に肉の味がまずくなる。
 五連式の短銃を四発だけ撃って、雛鳥をきっかり四羽仕留めてみせる。巣立てる雛は、一羽か二羽──。

「ちょっと待ってよ、シンイー」とイオが言う。「なんで全部撃たないの?」
「雛を全部殺したら、来年卵を産むクモタカチョウが育たないからよ」
「そうじゃなくって。どうして弾を一発だけ残すのかって話」
「ああ。それはね──」

 クモタカチョウは数を数えられる、とまことしやかに語られるほど、親鳥が飛び立つタイミングは雛が四羽吹き飛んでからと決まっている。まるで、それ以上殺されると自分の遺伝子が後世に残らないと知っているみたいだ。
 実際のところは、悠長に我が子の死を見守っている親鳥の遺伝子は、子どもの全滅と同時に、後世に残る資格を剝奪されるからに過ぎない。都合の良い遺伝子だけが生き残る、自然選択の不思議──。
 甲高い鳴き声を一つ残し、親鳥が巣を飛び立つ。翼が風を切る音がどんどん近づいてくる。
 両翼二メートルの影は、ヒルギス人の子どもを覆い隠すのに十分すぎるほど大きい。
 日が陰ると、草木の湿った匂いが強くなる──そんなことを考えながら、私は親鳥の鋭い鉤爪かぎづめが上空から近づいてくるのを影の中でじっと待つ。子ども用の短銃で成鳥を撃ち落とすには、できるだけ距離を縮める必要があるからだ。
 親鳥の瞳に映る悲しみが見えるほど近づいたら、やにわに引き金が引かれる。短銃は左腕に持ち替えられている。
 こうなると、もう逃れようがない。予定された世界線をなぞるように、血に染まったクモタカチョウが翼を絡ませながら、自分の影の中に落ちていく。
 私は親鳥の足を縄で縛り上げると、雛と一緒に肩に担ぎ上げた。上々の滑り出しだ。
 ただ、獲物を背負って小屋に帰っても、祖父さまの渋い顔が晴れないことがままあった。
 短銃に使用するのは程度の悪い鉱石から精錬された鉛がほとんどだったけれど、腰袋の弾丸が無駄に減っていると、ツルクビの茎で尻をぴしゃりとやられた。私たちの村は鉱石が取れるアラウーシ山から遠く、不用意に鉛の注文を増やすと、取引相手に足元を見られる可能性があったからだ。
 もちろん射手アーチヤーに選ばれるころには、無駄弾はほとんどなくなった。
 二代続けて稀代の射手を輩出したレイ家だ、必然的に私に対する期待は大きかったけれど、望めば誰もが射手になれるわけではない。男であれ女であれ、射手になるには、射手になるための「きざし」が必要だ。
 かつてヒルギスの始祖ゲーイーは、空に現れた九つの太陽を弓で射落とし、人々の危機を救ったという。
 おそらくは干ばつを象徴するこの伝説に敬意を表し、いかに文明の利器が進化しようと、ヒルギスの狩人はいつだって射手アーチヤーだ。それが火薬を使った銃であっても、電磁誘導を使っていても、呼称が変わることはない。
 私の兆しは五歳と半年程で現れた。いつもの射撃訓練の帰り道、茜色の空を滑空するクモタカチョウを見上げたとき、それは起こった。斜陽に撃ち抜かれた私の意識は光に包まれ、体ははがねのように硬直して地面に打ちつけられた。
 まるで、自分の体が自分のものでなくなったみたいだった。体の奥底から湧き起こる脈動で、私の体は砂の上で跳ね続けた。食いしばった歯の隙間から、地鳴りのようなうめき声が漏れ続ける。
 たかが五歳半の子どもを押さえつけるのに、祖父さまたち大人四人の力が必要だったという。呪術師は酒で清めたなたを振り上げると、ゲーイーに祈りの言葉を囁きかけた。
 勢い良く振り下ろされた鈍色にびいろの輝きを、私は一生忘れることがないだろう。
 呪術師の鉈は私の頭蓋を切り裂き、脳梁のうりようを一刀両断した。私の中の神聖はこの瞬間、永遠に私から切り離されたのだ。
 以来、私の右脳にはゲーイーが宿っている。
 私が左腕で銃を構えるとき、獲物を射抜くのは私ではなく、右脳に宿る伝説の射手だ。意識に制御されないむき出しの本能が、獲物の心臓を狙って引き金を引く。
 死神の純粋さで。

「三日三晩眠り続け、ようやく目が覚めたとき感じたのは、孤独だった。生きてるっていう喜びなんて一つもない。あるのは寂寥せきりよう感だけ……」
 私はヘルメットの上から、その下にあるはずの赤黒い傷をなでた。
「左脳が自意識、右脳が無意識を司るなら、脳梁を切断された私は、無意識にアクセスする権利を失ったことになる。無意識ってたぶん、祖先から代々受け継がれてきた、本能みたいなものだと思う。すべての人間が等しく共有している領域。それに触れられなくなったから、私は孤独を感じたのかもしれない」
「いまも感じる?」
「ときには。でも、こうして話してると忘れられる。だから、イオが地平に消えてしまったら、すごく寂しい。こんなふうに話した思い出も全部、事象の地平面の向こうに行ってしまって、二度と触ることができないんだから」
 いつの間にか膝を抱えて聞いていたイオが、ぽつりと呟く。「シンイーにそんな思いさせられないね」
「わかったんなら早く食べて、下りる準備をしなさい」
 イオは頷くと、丸みの残る頬をもごもごと動かして、流動食を全部平らげてしまった。
 こんなふうにイオをなだめた後は、本当に自分が母親にでもなったような気がする。あり得たかもしれないもう一つの人生を想いながら、タラップへ向かうイオを目で追う。
 降下ユニットに下りると、イオはうつ伏せ寝になってスコープを覗き込んだ。クオンタムエンタングルメントテレスコープ──量子もつれ望遠鏡。望遠鏡とはいっても、QETとイオがセットになると、むしろ顕微鏡に近いのかもしれない。
 ブラックホールに落ちた粒子が何ごともなく事象の地平面を越えると思っているとしたら、とんだ考え違いだ。その視点が許されるのは、自由落下で落ちた粒子本人だけ。地平面上空に留まるイオには、ダーク・エイジの大気が四方八方からぶつかって、落ちた粒子がブラウン運動ランダムウオークし始めるように見える。
 ウォークというからには追跡が可能だ。ヒルギス人が狩りのときに、砂漠の上に残された動物の足跡を読むのとちょっと似ている。
 もちろん私には、粒子が地平面近傍でたどった軌跡を読むことなんてできないけれど、QETを覗いたイオには可能だ。
 幾数多いくあまたの素粒子に分解された情報を、イオは地平面近傍の放射から拾い上げることができる。あたかも増大するエントロピーに逆らうかのように、プランクスケールからマクロな世界へと、元の情報を再現してしまう。
 QETで何が見えるか何度か尋ねたことがあるけれど、イオは一度もうまく説明できたためしがない。夢を見ているようだと、形容したこともある。何を見たのかはわからないけど、頭の中にイメージは浮かぶと。
 だから、何らかの粒子がQETのレンズを通して、イオの脳に影響を与えているのは確かなようだ。何しろ視神経は直接、脳とつながっている。そういう意味で、網膜は単なる神経細胞の集積というより、露出した脳なのだ。
 ビープ音が鳴り、事象の地平面の視半径が、百三十五度に達したことを知らせた。ダーク・エイジはすでに黒い沼というより、漆黒の壁といった様相を呈している。強大な重力が空間をねじ曲げ、地平面を水平より四十五度も上に持ち上げているのだ。
 しかも、この壁の上昇はまだまだ止まらない。仮に私たちが事象の地平面に到達したとすると、全天は完全な闇に包まれる。
 もちろん、トード号がそこまで降下することはない。連邦のいまの技術力では、パメラ人の完全観測可能距離といわれる四千メートル圏内で地平面上空に静止するのだって、夢のまた夢だ。
 でも、わずかな手がかりを得るために、イオはできる限り事象の地平面へ近づいていく。反物質エンジンの出力を上げ、重力との均衡を保つ。ホバリングする。
 私もそこに同行できたらと思うけれど、同じ深度にいてはイオのことを守ってやれないから仕方がない。常識を超えた重力下では、電磁誘導をもってしても、弾丸を水平に飛ばすことはできないのだ。
 だけど、そもそも、どうしてそんな場所で銃を撃つ必要があるのだろう。
 光でさえまっすぐ進めない極限の世界に、イオに危害を及ぼすような何かが潜んでいるなんてことが、どうして起こり得るのか。
 光さえ飲み込んでしまうのが重力の力なら、存在するはずがないものを吐き出すのも、また重力の力。
 その摩訶不思議な物理的帰結のせいで、私はこんな場所で狩りをする羽目になったのだ。



 そもそもの始まりは、宇宙に終わりがあるという、歴然とした事実だった。
 宇宙連邦の偉い人たちは、それが我慢ならなかった。始まりがあれば終わりがあるという、ごく自然な摂理も、体どころか脳までぶくぶくと肥大した権力者たちの目には、自分たちの権利を侵害するものとして映ったようだ。
 ヒルギスの民に、そのような思想はない。あるのは狩るものと狩られるものとの間にある、一瞬の邂逅だけ。狩りが終われば未来どころか、明日がどうなろうと知ったことではない。
「だったら、どうしてシンイーのお母さんは、シンイーを産んだの?」と昔イオは言った。「明日を続ける気もない世界に子どもを送り出すなんて、無責任じゃないかな」
 だったら子孫を残すべきではないと、イオは言うのだ。
 なるほど、それも一理あると私は思った。終わる世界に何の対抗手段も残さないで、ただ産めよ増やせよでは、無責任極まりない。
 ただし、私たちだって次の世代に残していくものは持っている。
 ヒルギスの民は世界と戦うために、皆が一挺の銃を与えられる。
 射手になれるかどうかは関係ない。私が祖父さまから狩りの基本を叩き込まれたのと同様、生まれたときから全員が、射撃の何たるかを身に沁みて覚えさせられる。
 リンゴも上手く剥けない子どもが、落下するリンゴを銃で撃ち抜くなんてざらだったし、ナイフの研ぎ方は知らなくても、銃身から鉛の残滓ざんしを掻き出す方法ならよく知っていた。
 私だって、いつから銃を撃ち始めたかなんて覚えていない。気がつけば獲物を狩るためのすべての所作は、何万回という射撃の反復運動によって無意識に刷り込まれていた。私の右脳に、祖神ゲーイーの魂が着々と蓄積されていたのだ。
 要するにヒルギスにとって世界とは、銃一挺で対抗できるものだった。その範囲しか世界と認識していなかったのだ。
 でも、多くの人間にとっては、世界はもっと広大だった。
 特にパメラのような過去と未来を俯瞰する長大な時間の流れの中で生きる人々にとって、世界の終わりは、どうしようもないほど邪魔な存在だった。
 だから、自分たちを追い出した連邦の人間が再び目の前に現れ、国を与えるのと引き換えにダーク・エイジで働くことを要請してきたとき、彼らは過去の遺恨に封をして、すんなり協力することにした。それは辺境をさすらう日々の終わりを意味したし、上手くいけば時間上に立ち塞がる目障りな障害物を取り除くことになる。
 連邦の中には、パメラ人と一緒に働くことに反対する民族主義者たちも、確かに存在した。しかし、状況は昔とは一変していた。そもそもパメラのような能力を持った、いわゆる「勘の鋭い人々」がいなければ、連邦が立てた新しい計画は上手くいくわけがなかった。彼らは、いずれ訪れる宇宙の終焉を乗りきる方法を、パメラに探させたかったのだ。
 そして、その方法はダーク・エイジの表面に記述されているはずだった。パメラ人だけが読むことができる粒子の足跡として、停止した時間という名のキャンバスの上に。

「まだ宇宙連邦ができて間もない時代に、君たちの祖先がダーク・エイジに集まったのは、ここに生命の痕跡を見つけたからだよ」
 艦橋ブリツジ下の広場に併設された、多目的遊技場。幼い私たちは、その鉄棒に腰かけて星を見ていた。
 顔合わせからしばらくして、私とイオはプライベートでもよく話す間柄になっていた。でも、当時の私は圧倒的に知識が不足していたから、イオがする歴史や科学の話についていくことさえできなかった。いまでこそトード号のライブラリーである程度の知識は補完したけれど、あのころの私の頭の中にあったのは、獲物と火薬の匂いだけだったのだ。
「痕跡って……まさか足跡があるわけじゃないでしょ?」
 私の問いかけに、イオが笑った。その拍子に銀色の髪が少しなびいて、なんだか星空とよく似合っていた。
「足跡ではないよ」と彼は言った。「電波望遠鏡のスペクトル分析から、有機化合物──それも、生物の細胞の原料になるような種類の物質があることがわかったんだ。でも変だったのは、見つけた場所がボイドっていう、何もない宇宙空間だったことさ」
「何もない?」
「うん。そんなのおかしいに決まってる。ほとんど星も見当たらない場所で暮らす生き物なんて、考えられないからね。何かが起こってることは確かだった。それで、調べることにした」
暁の疾風ドーン・ゲイル」ことゲイル・アークライト大佐に率いられた〈夜の虹ムーン・ボウ〉船団は一路、謎のボイド領域を目指した。
 中心になったのは一攫千金を狙う新進気鋭の氏族連中だ。星図にあるような惑星系はあらかた開発が済んでしまっていたから、宇宙連邦の有力氏族に名乗りを上げるなら、リスクを背負うのは避けられなかった。
 膨大な時間と数多の危機を乗り越えながら旅をした彼らは、ついに目指す領域に到着。そして、そこで信じられないほど巨大なブラックホールを見つける。
「ダーク・エイジと名付けられたそのブラックホールはあまりにも巨大だったから、宇宙ができたすぐ後に生まれたって考えないと辻褄つじつまが合わなかった。周囲のあらゆる物質を吸い込みながら宇宙の年齢と共に成長し、あんなに大きくなったってわけ。ところが計算してみると、それでも間に合わないことがわかったんだ。宇宙の年齢分育ったとしても、ダーク・エイジはあまりに巨大すぎる。生物由来の有機化合物。そして非常識に大きく育ったブラックホール。導き出された答えは一つだった」
「何?」
「誰かに作られたんだよ。あんなに大きくなるまで太らせたのは人間さ。ひょっとしたら、同じくらい頭のいい別の宇宙人かもしれないけど」
 人間が星を作った? そんなこと、できるんだろうか?
「〈夜の虹ムーン・ボウ〉船団の人たちは、もっと驚いたと思うよ。だって当時、人類は大航海時代の真っただ中。反物質エンジンの開発で行けるところが一気に拡大して、銀河を我がもの顔で走り回ってたんだから。自分たちが宇宙の支配者だと、何の疑問もなく信じてた。でも、この領域までやってきて、それがとんでもなく自惚うぬぼれた考えであることがわかったんだ。人間──か何かわからないけど、その生命体は十五兆標準太陽質量のブラックホールを育て上げて、とっくにこの宇宙から抜け出していたんだから。宇宙の支配者なんて、とんでもない思い違いだ。残されてたのは、彼らが時空に開けた、巨大な穴だけさ。抜け殻だったんだよ。僕たちは、この宇宙に置き去りにされた、残りかすさ」
 イオは手に持っていたジュースのカップをドンとテーブルに置いた。遊技場は重力が甘く作られているから、カップは跳ねるように転がり、そのままテーブルの端から滑り落ちた。
 こんなに感情をあらわにしたイオを見るのは初めてだった。何も知らない私が茫然と立っているのを見て、イオは「ごめん」と謝った。
 私はそのとき、イオが怒っているのは、私たちが宇宙に置き去りにされたからだと思っていた。少しばかりものごとがよく見えてしまうから、そのせいもあるのだろうと。
 しかし、ことはそう単純ではなかった。本当はもっといろんな事情が絡んでいたのだ。
 でも、当時の私はそんなこと知るよしもなかったし、それにイオが語った何もかもが現実離れした話に聞こえた。これって本当に本当の話なのだろうか、と。
 そもそも、ブラックホールで宇宙から脱出するってどういうことなんだろう? 話によれば、ブラックホールは重すぎて光すら抜け出せなくなった天体だ。特にダーク・エイジは、そのなかでも、とびきり大きいらしい。それなのに、到底抜け出せそうもない「宇宙」から抜け出すって! 普通に考えれば無茶苦茶になって、それこそ残りかすさえ残らないぐらいバラバラになったっておかしくないような気がする。
「それは逆だよ」とイオは言った。「ブラックホールが大きければ大きいほど、逆に潮汐力ちようせきりよくは小さくなる。ダーク・エイジぐらいとてつもなく巨大になると、事象の地平面近くでも、時空の歪みはほとんど人体に影響を与えないんだ」
 惑星カントアイネを回る月だって、あんなに大きいから潮の満ち引きを引き起こすくらいで済んでるのだ。もし月が同じ重さでクモタカチョウの卵一個分くらいの大きさしかなかったら、私たちの体は折りたたまれていたかもしれない。小さい分、時空の歪みが大きくなるからだ。月の端から端まであった力の幅が、卵一個分にギュっと縮まってしまうと考えるとわかりやすい。そんな小さい場所に、私たちの体が押し込められるイメージ。
「ブラックホールも大きければ大きいほど窮屈じゃなくなる。地平を越えるとしたら、ダーク・エイジくらい条件のいいブラックホールはないってわけさ」
 地平を越える──。
 私は頭の中で、ヒルギスの海の彼方にあるという、常世の国をイメージしていた。水平線の彼方にある、美しき楽園。
 でも現実はもっと奇妙だった。連邦の科学者たちは、地平を越えたその向こうに、他の宇宙に通じる穴──特異点が存在すると考えている。そして、その穴を広げ、私たちが通り抜けることを可能にする、何らかの機構が存在すると。彼らはその機構を便宜的に、〈ゲート〉と呼ぶことにした。
「〈ゲート〉の探索には、どうしたって拠点が必要だった。それで、〈夜の虹ムーン・ボウ〉船団の氏族連中は、それぞれの星間航行船でダーク・エイジ周辺の惑星系に乗りつけると、一帯を連邦の勢力圏に取り込んでしまったんだ」
 新たに版図に加えた星々で手に入れた様々な資源や経済力は、氏族たちの連邦での地位を押し上げるのに十分なほど、彼らを潤わせてくれた。
 ただ、〈ゲート〉の探索はなかなか思うように進まなかったらしい。原始的な地平面探査基地プラツトフオームをダーク・エイジの軌道に放り込んでみたものの、その先になかなか進めない。何しろブラックホール近傍は時空の歪みがあまりに酷く、何をするにも時間がかかりすぎる。
 結局、本格的な探索に乗り出すには、耐重力装備やQETなどのさらなる技術革新に加え、パメラ人の時間に特化した情報処理能力が必要だったというわけだ。それで連邦は恥ずかしげもなく、一度追い出したパメラ人たちをダーク・エイジに呼び戻した。彼らは連邦直轄の星に自治政府を許され、いまではプラットフォームに独自の生活共同体コミユーンまで作り上げている。
「僕らパメラ人に望まれてるのは、ブラックホールの放射から、現実には何が起こったのを読み取ることだよ」とイオは言った。「謎の文明がダーク・エイジの地平を通り抜けて〈ゲート〉へ向かったなら、その痕跡は、いまも地平近傍に残されたままになっているはずだ。地平を越えようとするものは強力な重力のせいで、停止した時間に氷づけになってしまうからね。もし僕らが十分深く潜れれば、ダーク・エイジの放射によって彼らが数多の粒子に分解されていったその軌跡を、QETで捉えられるはずだよ。一方、これはとても不思議なことだけど、自由落下した彼ら自身は放射を目撃することもなく、事象の地平面を越えて、特異点に到達してるんだ」
 この概念を「ブラックホール相補性」と呼んだのは、宇宙連邦創成期の人々だ。生と死が同時に存在するようにも思えるこの不思議な現象を、いまだに私は自分が理解できたとは思えない。どうやったらバラバラの放射になった自分と、特異点に到達した自分が同時に存在するなんてことが起こり得るのか。
 とはいえ、パメラは地平を越えるわけじゃない。地平面から放たれる情報をQETで読み取るために、少なくとも、その手前で踏みとどまらなければならない。
 踏みとどまる者にダーク・エイジは容赦しない。恐ろしい加速度が襲いかかる。Gスーツがなければ、私たちはとっくに気を失い、押し潰されてしまっていただろう。

(続きは書籍版でお楽しみください)


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!