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【SF作家・山本弘氏逝去】前島賢氏による『シュレディンガーのチョコパフェ』解説「SFとオタクに必要なものの半分くらいは、山本弘に教わった」全文公開

2024年3月29日、作家・ゲームデザイナーの山本弘氏が誤嚥性肺炎のため68歳で逝去されました。

早川書房からは現在、小説作品『シュレディンガーのチョコパフェ』『アリスへの決別』『地球移動作戦』『プラスチックの恋人』『プロジェクトぴあの』が刊行されています。
またアンソロジー『多々良島ふたたび ウルトラ怪獣アンソロジー』には表題作となった短篇を収録、ご自身も海外SFのアンソロジストとして『火星ノンストップ ヴィンテージSFセレクション―胸躍る冒険篇』を刊行され、SF作家としての山本弘氏には生前長いお付き合いがありました。

ご逝去にあたり、氏の長年のファンであり作家・ライターである前島賢氏から、短篇集『シュレディンガーのチョコパフェ』(単行本『まだ見ぬ冬の悲しみに』改題・ハヤカワ文庫JA・2008年刊)に執筆いただいたご自身の解説をWeb公開するご提案がありました。
多才で様々な分野にて活躍された山本弘氏の、SF作家としての魅力と功績を熱量たっぷりでまとめた解説「SFとオタクに必要なものの半分くらいは、山本弘に教わった」を、故人を偲んで公開いたします。

『シュレディンガーのチョコパフェ』山本弘
カバーイラスト:橋本晋
ハヤカワ文庫JA

SFとオタクに必要なものの半分くらいは、山本弘に教わった


                       ライター 前島 賢


 大作『神は沈黙せず』が日本SF大賞の候補作になったのがきっかけだろう、山本弘に「日本SFの新たな旗手として注目される」との枕言葉が付くようになった。それはもちろん正しい。けれどその説明だと、山本弘が新人のような、あるいは最近まで山本弘がSFを書いていなかったような印象を与えてしまわないだろうか。──本当はSFが書きたかったのに運悪く「SF冬の時代」だったので、長らくライトノベル書いてました、みたいな。もし読者諸氏がそう思っているとしたら、大いなる誤解だ。山本弘を読んでSF者になった僕が言うんだから間違いない。
 
 
「私に教えてもらおうとするのは間違いだ。私には君たちの幸福を定義する権利などない。それは君たち自身が苦しみながら答えを出すべき問題だ」
 
 少なくない読者諸氏が、これを「バイオシップ・ハンター」からの引用だと思ったのではないか? ところがこれは、「バイオシップ・ハンター」から二年後の一九九二年に出版された山本弘の小説『サイバーナイト──漂流・銀河中心星域』に登場する台詞である(下巻・222頁)。地球を遙か離れた銀河中心星域へと漂流してしまった揚陸強襲艦「ソードフィッシュ」の傭兵たちが、様々な異種族と出会いながら地球への帰還を目指すという物語。本書で「我々はデータを与えるだけだ。それをどう利用するかはお前たちの問題だ」と告げたディスタント・ブルーに代わって前掲の引用部を語っているのは、銀河中心に位置する超巨大ブラックホール・射手座Aウエストに発生した意識(!)メンターナ。そして、彼に「では、あなたは幸福とは何か知っているのですか?」という問いを発したのは爬虫類型異星人・ゴーディク人の女性・ブルーキーパーだ。自ら宇宙船を造る技術を持たず、神を信じない彼女たちは、間違いなくイ・ムロッフの系譜だろう。本書は、ライトノベルレーベル・角川スニーカー文庫から出版された、紛れもないハードSFだ。あの『GOTH〜リストカット事件』の乙一を始め、しばしばオタク第三世代とも呼ばれる1980年前後生まれの人間には、本書が人生初めてのSF、という人間が多い。1982年生まれの僕もそのうちの一人だ。解説執筆のために再読したが、「バイオシップ・ハンター」の中で「アクティヴェーター種族」と呼ばれていた地球人が、こちらでは「ファイター種族」と呼ばれ(広大な銀河には我々ほど戦争好きな種族はいない、という強烈な皮肉だ)たりするのを始め、本短篇集との繋がりをいくつも発見することができた。たとえば『サイバーナイト』の世界では、クローン技術によって、記憶も含めた人間の完全なクローン再生が可能となっており、作中でも死んだ恋人同士がクローンになって再会したりする。けれども蘇った二人の間に再び愛が芽生えることはない。二人とも、死んだ人間と同じ記憶を持つというだけの別人だからだ。では、愛とはなんなのだろう? 「私」の愛する「あなた」の本質とは? そんな問いは、本書所収の「シュレディンガーのチョコパフェ」や「七パーセントのテンムー」へとしっかりと受け継がれている。あるいは、傭兵部隊のリーダー・ブレイドと宇宙船に搭載された人工知能・MICAとの「恋愛」には、のちに発表された傑作ロボットSF『アイの物語』の萌芽がある。
 
 おわかりいただけただろうか? ライトノベルだろうとどこであろうと、山本弘はずっとSFを書き続けていたし、同じ問題を形を変えて問い続けてきた。人は異種族と共存できるのか。「この私」とは何か。真実の愛とは何か。もっと正確に言えば、山本弘はいつでもどこでも山本弘だった。自らの偏見に閉じこめられた人間の救いがたい愚かさを描き、にもかかわらず神という超越者に頼らず、自分の意志で決断する人間への賛歌を描き続け、異質な存在との共存を訴えてきた(そして、ついでに言えば、美少女も脱がし続けてきた──『時の果てのフェブラリ──赤方偏移世界』でフェブラリー・十一歳がレイプされかかったり、《妖魔夜行》のヒロイン・守崎摩耶の抑圧された性欲が妖怪を生み出すなんて展開に、眠れなくなった小中学生は多いはずだ)のだから。
 
 山本弘はいつも山本弘だった。手加減のできぬ男である。空気を読めない男と言ってもいい。その視線(あるいはそれをSF的と呼んでもいいのかもしれないけど)はいつも変わらない。むしろ、だからこそ、異なるジャンルや環境──たとえばライトノベルやライト・ファンタジーというあまりに多くの制約や無意識の前提が含まれた場所──においてこそ、真に衝撃的なものになるのかもしれない。「人類は異質の知性を受け入れなければならない」という信念は、SFの外でも揺るがない。SFなら宇宙人と仲よくしないといけないけど、ファンタジーならモンスターを殺してもよし、なんて器用な使いわけはしない。できない。
 
 たとえばファンタジー世界を舞台にしたテーブルトークRPGのリプレイ(コンピュータの代わりに、GMと呼ばれる人間が状況の説明や判定などを行うRPG。複数の人間が集まってサイコロを使いながら即興演劇のように行う。リプレイとは、その記録のこと)の中で、山本弘は風変わりな女性僧侶を登場させて、冒険者たちにこう問いかける。
 
 
 ライヴェルは人間に親を殺されたゴブリンの子供たちを救い、森の中でひそかに育てていた。彼らも生まれつき凶暴なわけではない。悪い親に育てられるから悪くなるのだ。正しく育てれば、きっと優しい性格になるだろう……
(中略)
GM(山本弘:引用者註)「あなたがたはひょっとして、無抵抗の怪物を虐殺したというようなことはありませんか?」
山本弘/グループSNE『モンスターたちの交響曲 ソード・ワールドRPGリプレイ集スチャラカ編②』
 
 
『スレイヤーズ!』のリナ・インバースが「悪人に人権はない!」と言いながら竜破斬で盗賊砦をストレス解消のために壊滅させていた一方で、山本弘は「ゴブリンは悪の存在」という「設定」を免罪符に、我々は自らの欲望(経験値?)のために異質な他者を排除していたのではないか? モンスターに人権はないのか、とマジメに問題提起していた。その主張は賛否両論をもって迎えられ、いまだに議論の種になっている。あるいは最近ようやく完結した(我々は九年待ったのだ!)ソードワールド世界を舞台にした少年の成長譚《サーラの冒険》でヒロインのデル・シータに邪神ファラリスの信者という属性を与えたのもまた、「ファラリス信者=悪=殺してもよし」という固定観念への山本弘なりの異議申し立てだったのかもしれない。
 
「バイオシップ・ハンター」でクリフ・ダイバーは「『しょせん異星人のことは理解できない』と考えることが、彼らを理解する第一歩なのだと思う」と語る。逆に言えば、ステロタイプな宇宙人を描くことは、他者との共存を阻害することに他ならない。だからこそ山本弘は、異質な他者を次々に創造し続けてきた。《サイバーナイト》に登場するゴーディク人やトレーダー種族といった「地球人には存在しない感情」を持つ異種族たち、『神は沈黙せず』の「神」、『アイの物語』の人には理解できない複素ファジイ自己評価を用いて会話するTAIたち、そして本書に登場するニューロノイドやイ・ムロッフや言語文明をきずきあげたインチワームのように。
 
 
 けれど、そんな異種族たちの中で、地球人にとって一番共存するのが難しいのは、実は地球人同士、という皮肉もまた一貫している。「まだ見ぬ冬の悲しみも」を見ればいい。私たちは自分自身の考えていることさえ理解できない。あるいは「七パーセントのテンムー」。私たちは容易に偏見にとらわれ、些細な違いをもとに他人を迫害する。もう一つ《サイバーナイト》からの引用。「トレーダーに比べれば、ゴーディク人の考え方はずっと地球人に近い──地球人に近いからこそ信用できないんだ」。
 
 本書収録の「シュレディンガーのチョコパフェ」は、『ガンパレ』『エアマスター』『カレイド』など多数のオタク系の固有名詞をちりばめた作品だ。近年では本作のように『げんしけん』や『NHKにようこそ』など、オタクそれ自身をモチーフにした作品はけして少なくない。最近ではアニメ『らき☆すた』のヒットが記憶に新しい。要はそれだけ、オタクという存在が市民権を獲得してきたということなのだろう。けれども本作の原型が同人誌『星群ノベルズ№10エデンの産声』に書かれたのは、1985年。なんと今から二十年以上も前である。山本弘は、1956年生まれ。オタキング・岡田斗司夫らと同世代であり、いわゆるオタク第一世代にあたる。本作の執筆当時は、オタクたちへの世間からの風当たりは、今とは比べものにならないほど強かった時代だと聞いている。さらに五年後には、宮﨑勤による連続幼女誘拐殺人事件が起こり、オタクたちは犯罪者予備軍と認定されてしまう。当の山本自身が、異質な他者として「地球人」から排除される存在だったのだ。それが山本弘をして、「異質な存在との共存」と「理解しあえない地球人同士」というテーマに向かわせた、というのは、あまりに「文系的」すぎる読みだろうか。
 
 しかし、少なくとも、山本弘がその初期から、日本に住む異種族であるオタクの実存を一貫して描き続けてきたのはたしかだろう。自らがメインとなって世界設定を行ったシェアード・ワールド《妖魔夜行》は、特にそれが顕著だ。某有名悪役俳優をモチーフにした特撮ファン感涙の「さようなら、地獄博士」(『深紅の闇』所収)、あるいはドール・オタクの実存を描く(これもまた『アイの物語』の原型だろう。山本弘は本当にいつでも山本弘である)「水色の髪のチャイカ」(《百鬼夜翔》同短篇集所収)などはもちろんのこと、本篇のメインヒロイン・守崎摩耶自身が、典型的なライトノベルの少女像とは異なる、内気なオタク少女である。「『ラムネ&40』のポスターと、中学の修学旅行で買ってきたペナントが貼ってある」(『真夜中の翼』所収)のが彼女の部屋であり、机の奥にはやおい同人誌が隠されていることが後に判明する(もしかしたら史上初の腐女子ヒロインじゃないだろうか)。些細なことでクラスメートから孤立し、にもかかわらず親は「十六にもなってアニメやゲームにうつつ抜かしてるなんて!」とあまりに無理解。それどころか「悪魔がささやく」(同短篇集所収)では、「更正」のために、キリスト教原理主義者に捕らわれ、大事なマンガや本の価値を理解してもらえずに燃やされてしまう。美少女と見ればいじめたくなる(それは本書所収「闇からの衝動」でもいかんなく発揮されている)山本弘の癖を差し引いても、おそらく、彼自身がかつて味わった苦労が相当に投影されているのは間違いないと思う。そしてそれはまた、オタクとしてスクールカーストの最底辺で鬱屈した日々を過ごしていた中学生の僕の現実でもあった。摩耶の姿は、痛々しかったけれど、少なくとも、自分と同じような環境にある人間が(たとえフィクションの中の世界でも!)一人はいる。そんな認識は、ファンタジーの世界に耽溺するのとは少しだけ違った形で、僕に現実を生き抜く力を与えてくれた。そういう意味で、山本弘は僕にとって恩人でもある。
 
 個人的な話はともかく、山本弘の長篇小説は、いつも人間賛歌であふれている。人間一人一人の小さな努力を肯定する前向きなビジョンで終わる。神を信じるな、自分の意志で決断しろ。人類は一歩一歩前に進んでいる。有無を言わさずそう告げる(共存と対話を言いながら、本人の小説には読者との対話性が少ない……簡単に言えば少し説教くさいのが、山本作品の玉に瑕なところだと思うがそれはさておき)。
 
 
「人間は少しずつだけど賢くなっている。自らの愚行に気づき、それを改めようとしている。世界を破滅させまいと努力する一方、今より少しでも幸せな社会を築こうと悪戦苦闘している」(『妖魔夜行 戦慄のミレニアム』)
 
「そう、一人の子供を正しく導くこと、それが最初の一歩だ。ひどく小さな一歩だが、それでも世界に平和をもたらす最初の一歩だ」(『神は沈黙せず』)
 
「多くのヒトが夢を語るのをやめなかった。自分たちのスペックの限界を超えた高みを目指した。その夢がついには月にヒトを送り、マシンたちを生み出した」(『アイの物語』)
 
 
 人によっては、それをあまりに楽観的だと思うかもしれない。僕も時々そう思う。山本弘が作中で行う人間性への考察がきわめて深く、時にその本質を揺さぶるものであり、あるいは短篇においては、この世界は、簡単に崩壊してしまうほど不安定なものだということを描くのだからなおさらだ。
 
 けれども「シュレディンガーのチョコパフェ」の初稿から二十年が過ぎた今を、見渡してみればどうだろう。『デビルマン』が「まともに映画化されて」いないとか些細な(ちっとも些細じゃないが!)問題をのぞけば、山本が二十年前に描いたオタクの楽園は、秋葉原にある程度実現している気がする。実際、山本弘自身が「考えてみりゃ、小説の中で描いたような恋人と本当に結婚できたわけだから、むちゃくちゃ幸せじゃないのか、自分?」と語るように、オタクの山本弘だって「大阪府で三番目ぐらいに幸せな」(『宇宙はくりまんじゅうで滅びるか』)家庭を築ける。その間に山本弘らに教育をうけてオタクになった第三世代の僕は、かつての宮﨑事件に起因するオタク・バッシングなど、ほとんど情報として知るのみだし、今現在、「ニコニコ動画」で大暴れしている僕より下の世代などは、知る必要さえないのかもしれない。最近のオタクはクラスでいじめられないそうだ。うらやましい限りである。そりゃ、例の「フィギュア萌え族発言」やら最近の「アッコにおまかせ!」の初音ミク偏向放送問題やら、腹の立つ話題は枚挙に暇がないとはいえ、さすがにもう秋葉原やコミケ会場で「ここに十万人の犯罪者予備軍がいます!」とは言えないご時世だろう。万歳! 本当に? 正直なところを言えば、僕には「シュレディンガーのチョコパフェ」の世界の「俺たちは幸福だった」を、どう受け取ればいいのかわからないのと同じくらい、今現在のオタクの楽園についても、よくわからない。ネットを漁れば自ら進んでオタクになりたがる若い世代の「ヌルさ」への年長世代の嘆きであふれているし、それに同調する気は全くないにしても(その半分くらいは、『エヴァ』の時にさんざん上から『イデオン』も見てないクセにと罵られたはずの僕の同年代なのだ!)、少なくとも創作への大きな原動力であったはずのオタクへの抑圧が消えたあとで、どのような作品が創られ、どういった形で消費されていくのかと思うと、僕は少し不安になる。けれども、それはまた次の問題なのだろう。少なくとも、オタクという「異質な知性」は人類との共存を果たしつつある。そこにはきっと「山本弘が創作する」という「小さな一歩」が何らかの役割を果たしていたに違いない(あるいは、僕たちがそれを「読んだ」ということも……?)。
 
 まずは、それをもって、山本弘が語る希望を少しだけ信じてみてもいい気もするのだ。


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