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戦争文学の旗手が、トロイア戦争を生きた女性たちを描き出す。英国で40万部のベストセラー『女たちの沈黙』(パット・バーカー、北村みちよ訳)に込められたメッセージとは?

数々の戦争文学を執筆し、世界中で高く評価されるイギリスの作家パット・バーカー。著者の新たな代表作『女たちの沈黙』(2018年刊)は、ギリシア最古の叙事詩『イリアス』を女性たちの視点から語り直した長篇小説です。

「『イリアス』? 名前だけは知ってる……」という方もご安心を!
詳しく知らなくても、ぐいぐい読めます! 本書はイギリスで40万部し、26の言語で訳され支持されているベストセラー。その読みやすさと面白さは保証されています。

さらに本書の訳者あとがきでは、ごく簡単に『イリアス』のあらすじと背景を記しています(巻頭には登場人物一覧も)。「この人、誰だっけ?」「この2人の関係は?」と思ったときに振り返ることができます。
というわけで、『イリアス』をとりあえずここだけ押さえておけば、『女たちの沈黙』が楽しめますというポイントともに、本作の読みどころとメッセージを、訳者の北村みちよさんが語ります。

女たちの沈黙
パット・バーカー、北村みちよ訳
早川書房より1月20日刊行(紙・電子同時発売)
装画:サイトウユウスケ 装幀:名久井直子


訳者あとがき

北村みちよ

いまから3000年以上前に起きたとされるトロイア戦争をモチーフにした物語、『女たちの沈黙』(原題:The Silence of the Girls)をお届けします。

トロイア戦争は、古代ギリシアのスパルタ王メネラオスの妻であるヘレネが、小アジア(現在のトルコ)北西部のトロイア王国の王子パリスに誘拐されたことに端を発します。そこでヘレネを奪還するため、メネラオスは、兄であるミュケナイ王アガメムノンを総大将として、ギリシアじゅうから集めた王や兵士たちによる連合軍を組織し、大船団でトロイア遠征に繰り出します。そして、戦いはそれから10年もの長きにわたってつづきました。

◉『イリアス』のあらすじ

本書『女たちの沈黙』は、「叙事詩の環」(トロイア戦争を語る叙事詩の一群)のひとつである『イリアス』を語り直した小説です。『イリアス』はこの10年に及ぶトロイア戦争の最終年について描かれた作品で、ギリシアの吟遊詩人ホメロスによって紀元前8世紀ごろに作られたとされています。この古い物語は、主人公であるギリシア連合軍の英雄アキレウスが、総司令官アガメムノンと言い争う場面からはじまります。アガメムノンは、自身の戦利品である娘クリュセイスを、娘の父であるアポロンの神官のもとへ返すようアキレウスから迫られ、それを承諾する代わりにアキレウスの戦利品であるブリセイスを奪います。その仕打ちに対してアキレウスは怒り、戦うことを放棄します。そうしてアキレウスを欠いたギリシア軍はいったんは劣勢を強いられますが、その後、盛り返し、パリスの兄ヘクトルの葬儀の場面でこの物語は幕を閉じます。たった50日間を取り上げたにすぎず、有名なトロイアの木馬のエピソードや、戦争の終結とその後の出来事については、同じくホメロスの作とされている『オデュッセイア』や、そのほかの「叙事詩の環」で語られています。

このトロイア戦争は、中世から近世にかけては、神話にすぎないと一般的に考えられ、学者たちからも軽視されていました。ところが、1870年代にドイツの実業家・考古学者ハインリッヒ・シュリーマンがトロイア遺跡を発掘したと主張すると、史実に基づいているかもしれないと見直されるようになり、いまもなお研究が活発につづけられています。トロイア戦争が起きたと推定される時期にもさまざまな説がありますが、最近では、紀元前13世紀から12世紀ごろのミュケナイ時代との説が有力になっているようです。

◉本書『女たちの沈黙』のあらすじ

『イリアス』の主要登場人物はアキレウスを始めとした男たちですが、本書『女たちの沈黙』は、ブリセイスを始めとした女たちの側から描かれた物語です。本書は、トロイアの近隣都市リュルネソスがアキレウスと兵士たちによって滅ぼされる場面からはじまります。リュルネソスの王妃であるブリセイスやまわりの女たちにとって、それは恐ろしい悲劇の幕開けでした。夫や兄弟をアキレウスに惨殺されたばかりのブリセイスは、悲しむまもなく、そのアキレウスの「戦利品」、つまり奴隷となるのです。そしてそのことが『イリアス』でも描かれているアキレウスとアガメムノンの不和に発展し、ブリセイスたちも巻き添えを食うことになります。そうした中、ブリセイスは、時には元王妃らしく毅然とふるまい、また時には19歳の娘らしく気持ちが揺れ動きながらも、野営地で自分のできる務めを果たそうとし、奴隷仲間の女たちや、アキレウスの副官であり無二の親友でもあるパトロクロスとさえ心を通わせていきます。さて、ブリセイスの運命はどうなっていくのでしょう……。

本書では、ブリセイスの一人称で物語が進んでいきますが、所々に、アキレウス視点の三人称で語られる章が挿入されています。そこで読み進めていくうちに、アキレウスが怒りっぽく残忍な戦士でありながら、人間ペレウスと海の女神テティスとのあいだに生まれた者ならではの苦悩を抱えているのだと気づかされるとともに、礼儀正しさや人間らしい心を持ち合わせた魅力的な男でもあるのだと思えてくるかもしれません。

とはいえ、本書の主役はやはり女たちです。冒頭で引用されているように、フィリップ・ロスは小説『ヒューマン・ステイン』の中で、ヨーロッパ文学は、ふたりの男が少女をめぐって争ったことから始まったと書きました。その一節に触れた本書の著者パット・バーカーは、長年敬遠していた『イリアス』を読む気になり、アキレウスとアガメムノンがとうとうと熱弁をふるうにもかかわらず、自分の運命が決められていく女たちは何も言わないのを知り、いつかこの沈黙させられた女たちに声を与えてやりたい、彼女たちが経験したことについて書きたいとの思いに駆られたそうです。本書には、ブリセイスのほかにも多くの女たちが登場します。奴隷仲間のイーピスリッツァヘカメデクリュセイスユーザテクメッサ。トロイア戦争のきっかけとなったヘレネ。トロイアの女たち。生き永らえて奴隷になるよりも死を選んだ娘たち。死者の身繕いをする洗濯女たち……。「女には沈黙こそ似つかわしい」という格言を聞いて育った女たちは、ヘレネがタペストリーの織り目に「わたしはここにいる」という思いをこめてひそかに自分の存在を知らしめようとしたように、過酷な状況下でも、物ではなくひとりの人間であるという誇りをもって生きています。その姿には、男性優位の社会から抜け出そうともがき苦しみながらも自らの地位を確立しようとする現代女性も励まされるのではないでしょうか。

トロイア戦争が起きたとされている時代から3000年以上も経った近代において、世界じゅうを巻き込むような大戦が二度も起き、その陰で多くの女性たちが虐げられてきました。しかし、その一方で、口を閉ざしていた名もなき女性たちの声に光を当てた人々がいます。そのひとりが、ジャーナリストのスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチです。1984年、アレクシエーヴィチは、第二次世界大戦で従軍したソ連軍の女性兵士500人以上にインタビューしたものをまとめた『戦争は女の顔をしていない』(群像社/岩波現代文庫)を発表しました。そして2017年には、女性に対するセクシャルハラスメントや性的暴行をなくそうという「♯MeToo運動」が世界じゅうで盛り上がり、日本でも徐々に関心が高まり、これまで沈黙を強いられてきた女性たちが声を上げる動きが広がりました。2018年に刊行された本書には、そうした女性たちにもっと声を上げてほしい、男性もその声に耳を傾けてもらいたい、という著者のメッセージもこめられているのではないだろうか。そんなことを感じながら、訳者はこの作品を訳しました。

◉著者パット・バーカーについて

著者パット・バーカーは、1943年、英国のノースヨークシャーで生まれました。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で国際関係史を専攻し、つづいてダラム大学で学び、卒業後はしばらく歴史と政治の教師として勤めました。20代半ばから細々と執筆活動をはじめていましたが、子育てが一段落した40歳近くになって、小説家アンジェラ・カーターの短期ライティングクラスに通うようになると、彼女の勧めもあって本格的に作家の道を歩みだし、1982年にUnion Street(『アイリスへの手紙』、徳間文庫)で小説家デビューを果たしました。またこのデビュー作はフォーセット・ソサエティ・ブック賞を受賞し、ガーディアン・フィクション賞の候補作となり、1990年には映画化もされました。つづいて刊行された、 Blow Your House Down (1984)、 The Century's Daughter (1986)を含めた初期三作品は、英国北部で暮らす労働者階級の女性たちの厳しい生活を扱ったものです。

その後、父を探す少年を描いた The Man Who Wasn t There (1989) を発表。そしてついに、1991年から2年ごとに刊行された三部作がバーカーの名声を確固たるものにしました。第一次世界大戦を題材にしたこの三部作は、フランス戦線で戦った祖父の体験から着想を得て書かれたそうで、戦争批判の姿勢が貫かれています。第一作 Regenerationは1997年に映画化され、第二作The Eye in the Doorは1993年度のガーディアン・フィクション賞を、第三作The Ghost Roadは1995年度のブッカー賞を受賞しました。1998年刊行のAnother Worldは現代のイングランド北東部ニューカッスルを舞台にした家族小説ですが、やはり第一次世界大戦で戦った老人の記憶が影を落としています。

2000年、バーカーは、それまでの功績がたたえられて大英帝国勲章三等勲爵士(CBE)の称号を授けられました。翌年に刊行されたBorder Crossing(『越境』、白水社)は、前作Another Worldに引きつづきニューカッスルを舞台にしたもので、児童心理学者と、13年前に老婆を殺害した罪で有罪となった青年との関係を描いた作品です。2003年には戦争の残虐さを描いたDouble Visionが、その後も戦争をテーマにした三部作──Life Class(2007)、Toby's Room(2012)、Noonday(2015)──が刊行されました。

◉本書の評価と続篇

2018年に本書が発表されると、独立系書店週間図書賞に選ばれるとともに、女性小説賞、コスタ賞、ゴードン・バーン賞の最終候補に残り、英国では40万部以上のベストセラーとなりました。英米の主要各紙誌でも取り上げられ、特に、英ガーディアン紙では「二十一世紀に書かれた最良の本の一冊」に選出され、以下のような評価を受けました。

西洋文学の正典がホメロスに基づいているとしたら、それは女たちの沈黙に基づいている。奴隷となったトロイアの女たちの視点から『イリアス』の出来事を描き直すバーカーの見事な介入は、♯MeToo運動や、抑圧された声を拾い上げるための広範な運動と調和した。依然として戦争のなくならない世界において、その試みは現代人にぞっとするような共感を与える。

2021年には、本書の続篇The Women of Troyが刊行されました。やはりブリセイスの視点から語られた作品で、トロイア陥落後の出来事について描かれています。そちらも日本の読者にご紹介できたらうれしいです。

最後になりましたが、本書を手に取ってくださったみなさまに深い感謝をささげます。この女たちの物語が、女たちの声が、ひとりでも多くの方の心に届きますように。

2022年晩秋

参考文献

エリック・H・クライン『トロイア戦争――歴史・文学・考古学』西村賀子訳(白水社、2021年)
パット・バーカー『越境』高儀進訳(白水社、2002年)
ホメロス『イリアス〔上・下〕』松平千秋訳(岩波文庫、1992年)
松田治『トロイア戦争全史』(講談社学術文庫、2008年)
アンドリュー・ラング『トロイア物語――都市の略奪者ユリシーズ』永江良一訳(Kindle版、2015年)
オーウェン・ハリス他監督『トロイ伝説――ある都市の陥落』ルイス・ハンター、ベラ・デイン他出演(BBC One / NETFLIX、2018年)
ウォルフガング・ペーターゼン製作・監督『トロイ』ブラッド・ピット、エリック・バナ他出演(ワーナー・ブラザース、2004年)
The 100 best books of the 21st century. The Guardian.2019-09-21
https://www.theguardian.com/books/2019/sep/21/best-books-of-the-21st-century (参照2022年12月8日)
Pat Barker on The Silence of the Girls: The Iliad is myth ‒ the rules for writing historical fiction don t apply . The Guardian. 2021-08-7
https://www.theguardian.com/books/2021/aug/07/pat-barker-on-the-silence-of-the-girls-the-iliad-is-myth-the-rules-for-writing-historical-fiction-dont-apply (参照2022年12月8日)
Pat Barker - Literature. British Council.
https://literature.britishcouncil.org/writer/pat-barker
(参照2022年12月8日)


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