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【2/21刊行】アマゾンを舞台に暴き出す20世紀文明の闇――第10回ハヤカワSFコンテスト特別賞受賞作、塩崎ツトム『ダイダロス』一章特別公開!

第10回ハヤカワSFコンテスト特別賞受賞作、塩崎ツトム『ダイダロス』を2023年2月21日(火)に刊行いたします。本作は最終選考委員の東浩紀氏の激賞を受け、また他の選考委員からも大賞受賞の小川楽喜『標本作家』に劣らない評価を得ての受賞となりました。今作では、レヴィ・ストロース一番弟子の文化人類学者、ナチスハンターの医師、そして〈カチグミ〉の残党を追う日系人ジャーナリストらを中心に、「陰謀論の20世紀」が見事に描き出されています。

塩崎ツトム『ダイダロス』(四六判・並製)
刊行日:2023年2月21日(電子版同時配信)
定価:2,420円(10%税込)
装幀:坂野公一(welle design)
ISBN:9784152102072

〈STORY〉
1973年、ブラジル西部のマット・グロッソ州。無慈悲な人体実験に関与したナチスの生物学者ヨシアス・マウラーを追跡するべく、当地へと赴いたユダヤ人の文化人類学者アラン・スナプスタインと医師のベン・バーネイズは、先の大戦での祖国敗北を否認する日本人移民・通称〈カチグミ〉の残党を負う日系人青年ヒデキ・ジョアン・タテイシと行動を共にすることになった。旅の果ての月夜、アランとタテイシは奇怪な刺青の少女を目撃するが、それは生命と精霊が二重写しとなる、濃密にして猥雑な世界との遭遇だった――アマゾンに奇怪な陰謀劇を構築する、バイオテクノロジーSF×幻想文学。

〈最終選考委員選評より〉
本作に最高点をつけて大賞に推した。(中略)、マジックリアリズムの秀作として幅広い読者に届くと期待したい。――東 浩紀氏


一章


 一九七三年、ブラジル西部、マット・グロッソ州。州都クイアバから南へ百キロの地点。
 この密林において、犬の役割は三つ。一つは猟犬として。もう一つは文明社会と同じく愛玩として。それから最後はオンサ(ジャガー)除けとして。牙さえ抜けるほど老いたオンサは独特の悪臭を放つようになり、簡単に狩れるヒトの子供ばかり狙いだす。だからその臭気を、犬にあらかじめ察知させる。
 しかし、アラン・スナプスタインの足元でうたた寝をする犬はすっかり老いて、どの役割も果たせそうにない。椰子やしの葉をかぶせただけの粗末な東屋あずまやに、アランたちが腰を落ち着かせた時も、そいつは少し顔を持ち上げただけで、まったく吠えようとしなかった。赤土の大地と同じ毛色だ。乾季の終わりの逃げ場のない暑気の中で、こいつは舌をダランと垂らしているが、その舌の上にも蠅が止まった。
 おれもこいつと同類だと、アランは思った。ささくれだったテーブルにそっと頬杖をつき、クイアバから持ってきた真水でれたマテをすすった。彼は別に、このみすぼらしい老犬に自分の境遇を投影して、感傷に浸っていたわけではなかった。新しい祖国での教職追放や、離婚のゴタゴタ。そのストレスから悪化し、ひょっとしたら一生向き合っていかなければならない持病など、ここ最近のトラブルの連続には辟易へきえきするが、自分よりも悲惨な境遇に置かれた人間や、自分ほど長生きできなかった人々を大勢知っている。彼が犬と一緒だと思ったのは、ただこいつと同じく蠅や蚊の猛攻と戦っていたからだった。以前にこの集落を訪れたときには、ここまで蚊はいなかったはずだ。
 彼の同行者は、自分にたかる小癪こしゃくな虫たちを、上品な中折れ帽を振り回して追い払っていた。帽子が振られるたびに、紫煙がかき消される。
「なあ、ドクター」アランは太ったあぶが落ちたマテを捨て、コツコツと指で机を叩いた後、目を伏せながらスキットルの中身を一口飲んで言った。「虫が嫌なら、その葉巻の火を消してくれ。そうすればだいぶマシになる」
 アランが葉巻を指さす間にも、二人の耳元では無数の羽音が響いていた。
 同行者は、黄ばんだ髭をかき分けて鼻の中に入ろうとした蠅を摘み取った。
「……わたしのハバナがどうしたって?」
「だから、その葉巻の煙が虫を呼び寄せているんだ。匂いが蠅を酔わせるらしい。おれとあんた、一層ひどい目に遭っているのは、一体どっちだ?」
「葉巻の煙で? それは初耳だ……」
 ドクターと呼ばれた小男──ベン・バーネイズ医師は惜しそうに、残りの葉巻を遠くに投げ捨てた。
「この国に初めてきたときには、存外気候が向こうと似ていることを喜んだが、蟻だの蚊だのがいるのはこたえる。いや、カメルーンでも虫には悩まされたが、そんなに長くはいなかった」
 彼は先の大戦時は自由フランス軍の軍医で、ナチに占領された本国のレジスタンスを支援する任務で、アルジェやモロッコといったフランス植民地を転々としていたという。
「虫の代わりに北アフリカでわたしたちを悩ませたのは──ロンメル将軍を除けば、なんといっても砂塵だった。西アフリカに行けばハルマッタン(砂嵐を起こす西からの貿易風)があらゆる水分を奪い、喉と目を傷めつける。サハラならシロッコというすさまじい砂嵐で、野営地を一昼夜で砂に埋めるし、行軍もできない。そして砂漠でみる幻覚は、オアシスのものだけではないんだな。砂塵の中からロンメルの戦車隊やスツーカ(ドイツの急降下爆撃機)が飛び出してくる幻で、みな恐慌に陥ったものだ。……あの砂の海と、ここいらの樹海、五里霧中という点で瓜二つとは思わないか?」
「さーて、行ったことがないからわからんね」アランは頬杖をついて、捨てられた葉巻の煙を凝視する。
「想像はできるだろう? サハラの暑気はテルアビブの十倍きつい。それに比べれば、ここの気温は、まだまだ天国だ。蚊は困るが、蝶は美しいな」
 アランは雨季のアマゾンの蒸し暑さを知り尽くしているので、この医者の余裕ぶりに、内心ほくそ笑んでいた。
 バーネイズはここまでの途上、大戦時の思い出話を延々と聞かせ、アランを辟易させていた。クイアバまでの飛行機内では、死ぬ直前のサン・テグジュペリを診察した話と、カイロで謹慎中のパットンに、一度だけアヘンチンキを処方したときの話だった。
 戦時中のアランはただの学生で、欧州戦線や太平洋からも離れたニューヨークで、真珠湾やパリ解放、ドイツの降伏やヒロシマ・ナガサキのニュースを冷ややかに見ていた。戦勝パレードにも行っていない。彼の両親はわざわざ見物に行ったが。
 一度だけ大きく咳き込むと、バーネイズはテーブルの上に広げられたマット・グロッソ州の地図に目を落とした。しかし地図をいくら眺めていても、自分たちの現在地がはっきりわかるわけではない。かつてのバルガス政権が打ち出した西進政策や、戦時中に束の間訪れた第二次ゴム・ブーム。そして近年の「アマゾニア計画」の後でも、木々の葉脈より緻密なアマゾンの支流は、ほとんど測量されないままだった。なにしろ雨季のたびにその流れは変わってしまう。
 そんなわけで地図の中のマット・グロッソ州は、広大な緑の大洋の真ん中に、できもののように州都クイアバが描かれ、そこから伸びる、わずかに踏破された、ボリビア国境の南部アマゾニア地方に流れる支流の曲線と、その自然堤防上の、わずかに文明化されたインディオの寒村の名前が少々書き込まれているだけだった。これまでの半世紀も、この密林は何の投資もされていないし、これからもされないだろう。
「ここの地図も、変わらんな」
「ん?」
 アランが顔を上げたので、バーネイズは微笑んで地図を指さした。
「いやなに、ハスキー作戦(連合軍のシチリア島上陸作戦)の準備段階だったと思うが、とある将校の乗った飛行機が砂漠のど真ん中に不時着して、それを陸路で救出しに行くことになった。幸いにも不時着地点は判明しているから簡単な旅程だと思われたが、与えられた地図には、町の名前も、等高線も涸れ川の名前も書かれていない。ただ緯度経度だけで、そこに不時着地点を示す印が書き込まれているだけだった。そのときの地図にそっくりだ。テーブルクロスにしかならん」
「『黄金狂時代』だな。雪原しか書いてない真っ白い地図だ。子供のころ近所の映画館で再上映されたのを観た。『モダン・タイムス』の宣伝で、もちろんそっちも観た。子供にはちょっと長すぎたが」
「きみは作り物の思い出ばかりだな。……で、仕方ないからわたしたちはベルベル人にならい、星を頼りに──つまり天測航法を用いて、その将校たちを迎えに行った。外洋の航海と同じだ。地図の役に立たない点がまるでそっくりだ。ここでも星を使って船旅をするのかね」
「これからの季節はずっと雨で星は頼りにならないし、川では迷いようがないぞ」
「それぐらい知っているとも。それともう一つ、そっくりなものがあった。……エルサレムの地図だ」
 アランは舌打ちした。自分に対する当てつけかと思った。
「──といっても六世紀の、いわゆる中世暗黒時代の地図だ。博物館で見たが、真ん中に聖地エルサレムを示す点があって、西にはヨーロッパ、東にはアジアと書かれていて、ついでにこれらを分かつ地中海とナイル川が書かれている。それでおしまいだった。かつてのヨーロッパ人の世界観がその程度だったということだろう。今はまったく違う。かつての植民地支配のように、入植地を白紙のキャンバスとして扱うわけにはいかない。そういうおごりこそ、あの二つの世界大戦と、昨今の脱植民地化のうねりの原因だろう。このマット・グロッソだって、本当はこの地図のような単色ではなくて、もっと複雑で、繊細な世界のはずだ。きっとここに書かれていない無数のディティールが、発見されるのを待っている。中には危険な罠だってあるだろう。だからきみに同行してもらった。無暗むやみに蝶や花を踏み潰して、いらぬ災禍を招きたくない」
「…………」
「きみの苛立ちの原因は理解できる。確かにあの土地では、不幸なボタンの掛け違いから、花畑を踏みつけるようなことがずっと続いている。それは認めよう。わたしは善人と思われたいわけではないが、偽善者とも思われたくない。あの若い国には、小さな偽善を受容するだけの大義がまだ足りない。アフリカ諸国も、遅かれ早かれ、同じように大義名分の枯渇に苦しめられるようになるだろう。……さっきから何を言いたいと思ってるだろうが、ただ単に、きみを頼りにしていると言いたかったんだ、スナプスタイン博士。世代も信条も違うし、祖国のために戦った経験の有無が、我々を引き裂いている。しかし、相手に対する敬意こそ、深い谷に掛かる橋だ。きみのキャリアに敬意を示しているんだよ。わかってくれないかね」
「敬意か、敬意……」アランはそっとため息を吐く。「それならおれの話も、ちょっとは聞いてほしいな」
「もちろん、専門家の意見は傾聴するが。それとも今、個人的に言っておきたいことがあるのか?」
「いや、別にないな。これからもない」
 アランはスキットルの中身をもうひと口飲んだ。
「そのボトルはもう、わたしが預かろう。これは医者としての意見だ」
「いや、これからの旅路で生水を飲むわけにはいかない。今のうちからアルコールに順応した方がいいというのがおれの意見だ。あんたもどうだ?」
「それも貴重な意見だが、遠慮しておこう」
「チーフ」背中から、二人に呼びかける声がした。従者のジョゼだ。「ジープの荷物は宿に運びました。まあ、あの掘っ立て小屋を宿って言っていいものかは、おれにはわかりませんがね」
 彼は額の汗を手の甲で拭いながら、東屋の中に入ってきた。
「ごくろうさん、お前は一杯どうだ?」
「いや先生、酒は真っ昼間から飲むもんじゃねえです。長いはずの人生を酒で台無しにした若い奴を、おれは嫌っちゅうほど見てきました」
「ほら、やはりわたしが預かっておこう」医師は再度手を差し伸べたが、アランはそれを無視し、スキットルを胸ポケットにしまった。
 ジョゼはサンパウロの港湾労働者のカボクロ(白人と先住民の混血者)だ。字は読めないが手先が器用で、自動車からタグボートの操縦まで見様見真似みようみまねで習得したという。その手腕からバーネイズに雇われている。
「とりあえずお前は先に休んでいなさい。わたしたちは人を待っているから」バーネイズに言われて、カボクロのジョゼは白髪交じりの縮れ髪をなでて小さく会釈すると、森の奥の集落へ戻っていった。
 彼らが時間を潰すこの村は、二つの集落がひょうたんの形にくっついてできている。二人のいる東屋は舟を待つ人が雨宿りをするためのもので、川の岸辺に近い方の集落にあって、雨季の間は川を往来する舟で賑わっているが、村人の多くは水はけのよい、もう一方の集落で暮らしている。森との境界では年寄りや慢性の病気を患う者が、流木や倒木をかき集めてつくったあばら屋で細々と暮らしている。このアマゾニアにおいて、もはや集団になんの貢献もしない彼らは、そうやって自然が──洪水や獣が、自分の肉体を始末してくれるのを待っている。
 バーネイズがひとつのあばら家を見つめていると、そこから半ばミイラになった全裸の老婆が這い出てきて、木桶に向けて股を開き、長々と小便をした。バーネイズは目をそらす。そして沈黙に耐えかねたように口を開いた。
「スナプスタイン博士、きみの言っていた案内人はどうなった? いつ戻ってくるのか、目星はついているのか?」
「さあて、それは狩りの成果次第だろう」
「では、狩りの獲物というのは、どういう頻度で捕れるものなのかね」
「季節によるが、重要なのは狩人の腕前だ」
「その案内人の腕前は?」
「さて、なにせ彼に最後に会ったのは二十年以上前だからな。その時は何をするのもおぼつかない、未熟な若者だった。今は女房も子供もいるだろう」
「…………」
 二人は再び黙りこくったが、沈黙は途中で断ち切られた。屋外が重々しい唸り声に満たされたからだ。飛行機のエンジンの音だと気付くのに、数秒要した。
 エンジンの唸りに呼応するように、森じゅうでホエザルたちがゴウ、ゴウという警戒の叫びを上げ、四方八方の密林は、諸々の生き物の発する警告のサイレンで満たされた。
「近いな」アランはつぶやいた。
「ひょっとして、近くに降りるつもりかね」
「いや、それはわからないが……」アランはそう返事をしながら、小屋の外で機影を探した。両手で日差しをさえぎると、フロートのついた小型飛行機が、頭上をゆっくりと旋回しているのを見つけた。
「やはり着陸するつもりか?」
「『着水』だな。川に降りるつもりだろう。……行ってみるか? パンタナールから国境付近まで飛んできたのなら、あんたの知りたいことについて、なにか手がかりを持っているかもしれない」
「『あんたの』ではなく、『我々の』と言わないとダメだ。スナプスタイン博士」
 アランはバーネイズの注意を黙殺して歩き出した。バーネイズは地図を乱暴に畳んでポケットにねじ込み、帽子を被ってその後を追う。足元の老犬も目を覚まして束の間二人を追うような仕草を見せたが、二歩進んだところで暑気を嫌がり、それ以上ついて来なかった。水上機はどんどん高度を落とし、木々の影に消えた。
 二人はこの集落と文明世界を結んでいる船着き場──腐りかけた丸太を縄でまとめただけの桟橋で、洪水の度に土台ごと流されてしまう──を目指し、ひび割れた緩い坂道を下っていった。彼らと入れ違いに坂を上ってくるのは魚の腐った臭いと、ガソリンの臭い、それから子供たちの歓声だった。飛行機の到来にも、この集落は沈黙を守っている。騒ぐのは体力の無駄なのだ。この時間に出歩いて、むき出しの太陽に体をさらすのは、毎日を愚直に遊び尽くす子供ぐらいだった。女たちはみな、高床式の家でハンモックに揺られつつ、日没と、夫たちの帰りを待つ。もしも空腹に襲われたら、畑のうねからユカ(キャッサバのこと)を一本だけ引き抜いてきて、それを軽く調理して食べる。
 船着き場では、村人が使っている丸木舟が、尻もちをついたように、赤錆色の泥に船底を沈めていた。泥の臭いに混じって、油の臭いが上昇気流に乗って、雲一つない、固く締まった空に昇華していく。それでもパンタナールの大湿原を潤す、大アマゾニアの流れは偉大である。乾季の終盤でも、広い川の真ん中には、着水できる程度の水が、まだ残っていた。そこを狙って降り立った一機の水上機が、沼地に咲いた蓮の花のように停まっている。パイロットはアランたちの方のコクピット席の扉を開けて、自分の足元を見下ろしつつ、しきりに首を振っていた。彼の足元には、真っ白な中折れ帽をかぶった男が一人、膝の上まで泥に浸かりながら、丸めた地図を振り回してわめいていた。
「ですから、あと一度きりのフライトでいいんですセニョール、この支流、見えますよね、それに沿ったルートを北から、こう、ぐるっと……」
 遠巻きに、半裸の子供たちがその様子を見つめている。彼らはしばしば、サーカスの道化を見物するように、男を現地の言葉ではやし立てていた。
「ねえ、セニョール、あなただって『レステ・デ・ソル』の名前を知らなくとも、『オ・グローボ』くらい読んでいるでしょう? 空軍にだって納めていますから。ね、いいですか? この取材は『オ・グローボ』のバルボーサ氏から──文化部のデスクですよ! 記事の転載について、もう確約をいただいているんです。つまりですね、今回のぼくの記事は全国で読まれるんです。サンパウロでも、リオでも、ブラジリアでも……聞こえてますか? あなただってブラジル人ですし、ぼくだって、同じブラジル人ですよ。情を見せてもいいじゃないですか。あなたに日々の任務があるように、ぼくにだって、ジャーナリストとしての使命があるんです。なんだったらここから陸路で国境まで行く覚悟だってあります。だけど、考えてごらんなさい。昔から逃した魚は大きいって言うでしょう。ねえ、セニョール、お互いに大人になりましょう。燃料費も宿泊費も、こっち持ちですよ。そこに異論なんてないはずだ。小切手だって、切ろうと思えば、この場で切れますよ、ほら」
 男は背負っていた深緑色のリュックをもたもたとまさぐって、紙の束を取り出した。
 しかし水上機が百馬力のエンジンを再始動させ、プロペラからの風が白紙の小切手の束を青空の下で散り散りにした。男は一緒に飛んでいきそうになった帽子をなんとか押さえつけ、徐々に遠ざかっていく機体の垂直尾翼を茫然と見つめていた。飛行機はあっさり離水して、樹冠の彼方へ消えた。
 やがてプロペラが風を切る轟音も絶えて、あとにはあの男だけが残された。シャツが地面に立てた白旗のようだった。子供たちは泥水に汚れた紙を拾い集めるが、彼らにしてみればただの紙にすぎない。すぐに投げ捨ててしまい、今度は男を取り囲んだ。
 男はまとわりつく子供と、底なしの泥と格闘しつつ、たっぷり五分かけて、アランたちが見物している、朽ちた桟橋に辿り着いた。彼は東洋人だった。そのつかみどころのない苦笑にアランは見覚えがあった。彼はきっと日本人──日系移民に違いなかった。かなり若そうだったが、インディオも含め、モンゴロイドの年齢を特定するのは未だに難しい。
「なにがあったか知らないが、見事な交渉術だったな」アランは桟橋の先端にしゃがみこんで、この青年を見下ろした。これはもちろん皮肉だ。
「いや、お恥ずかしい」青年はアランが差し出した右手を掴んだ。「まったく、本当に置き去りにするなんて、ありえないですよ」
 アランはややふらつきながら、青年を桟橋に引っ張り上げた。
「ありがとうございます、セニョーレス」
「礼には及ばない。それより訊くが、きみはどこから飛んで来た?」とバーネイズ。
「ぼくですか? ぼくは空軍の水上機発着場から乗ってきました。ロンドノーポリスの郊外です」
「奥地から来たわけではないんだね?」
「ええ、本当はここからもっと西の、パンタナールの先の国境まで行くつもりだったんですが、まったく、聞いてくださいませんか、セニョーレス! ぼくはここで飛行機の燃料を補給させるつもりだったんです。だけどあのパイロット、急に『上流では降りるところも少ないし、この辺のガソリンじゃ混ぜ物が心配だから』とかいって、ここで引き返すと言い出したんです」
「事前に説明しないのはともかく、まあ、賢明な判断だな」手を払いながらアランが言った。
「そうですか? 乾季の渇水だかなんだか知りませんけど、もう季節の変わり目でしょう? 雨季なら、ここで機を停めて待っていればいいだけじゃないかと抗議したら、『それならあんただけが待っていろ』……」
「それで助手席から放り出されたわけか」
「その通りです。まったく、クビチェック大統領が追放されてからこっち、軍人たちの増長ぶり、怠慢ぶりたるや、ですよ。ぼくはただの相乗りですけど、あのパイロットだって自分の任務があるわけでしょう。まったく、信じられません。……ああ、お二人は、外国の方ですよね? あなたの祖国で、軍人が任務を途中ですっぽかすなんて、銃殺ものでしょう。そりゃあ、今は戦時中ではありませんが、それでも同乗者を置き去りにして帰ってしまうなんて、非常識にも程があります。サンパウロに戻り次第、このことを紙面で訴えるつもりです。ブランコ政権はまったくひどい。このままでは、それこそ共和国は永遠に『未来の超大国』のままですよ」
「若い記者さんよ。おれだって軍人は苦手だ。しかしきみを置き去りにしたパイロットは、怠慢できみを奥地にまで連れていかなかったのではないと思うよ」
「それはどういうことですか、セニョール?」
「つまり──ええと」とっさに相応ふさわしいポルトガル語が出てこなかった。「まずはひとつ、きみは雨季のアマゾンをなめ切っている。雨季になって水量が増えたら、水上機のような軽い乗り物は、離着水はおろか、係留させておくことすら難しい。岸辺の風景なんて一晩で変わってしまって、ボラード(船をつなぎとめる杭)も、打ち込んでいる地面と一緒に流されてしまう。東海岸とは事情が違うんだ」
「だけどぼくには、奥地の航空写真が必要なんです。ついでに上流域にある集落の写真を撮って、めぼしい集落で降りて、取材を始める予定で……」
「ちょっと待て、きみは一人で来たんだろ?」アランは話を遮った。「現地の案内人とかは? 降りた先で交渉したり、話をつけられそうな連中はいるのか?」
「いえ、ぼくは別に、先住民の呪いの儀式をフィルムに収めたいわけじゃないんで、あいつらと話がつかなかったら退散すればいいだけです」
「しかし、取材先の事情を予め知っておくことは大切だろう。以前にアマゾニアへ来た経験は? ……初めてなら、せめて先住民の言葉はわかるか? この辺はパノ・タカナ語系を使うんだが、上流にいけばトゥピ語系になる。知ってるか?」
「はあ、ぼくは日本語とドイツ語ならわかります。それで充分でしょ? ここは共和国なんですから」
「きみは馬鹿か。公用語のわからないインディオたちだって、共和国の同胞だ。きみは学生か?」
「院生です、セニョール。サンパウロ大学に通う傍ら、記者をしているんです」
「サンパウロ大? 奇遇だな」バーネイズがアランを指さした。「この男もサンパウロ大学の教授だ」
「本当ですか? しかしぼくは、キャンパスであなたをお見掛けした記憶がありません」
「でかい大学だし、おれはもっぱら、フィールドワークに出ているからな……」
「フィールドワーク? 地理学的調査ですか?」
「まあ、人類学だがな」
「……あ! ひょっとして、あなたは、スナプスタイン教授でしょう」青年は顔色をぱっと明るくして、握手を求めてきた。「やっぱり間違いない! お噂はかねがね聞いています。あの、サルトルを論破した大学者、レヴィ゠ストロース博士の一番弟子!」
「教え子に一番も二番もないだろうが」
「やっぱりスナプスタイン教授でしたか! 今でも師の代わりにアマゾン奥地のインディオ文化の遷移を調査していると聞きました。今回も調査旅行ですか?」
「まあ、おれはそのつもりだ」
 バーネイズが一瞬、横目でアランの顔を見た。
「いつもわずかな従者を連れての調査だそうですね。失礼ですが、こちらの『ムッシュ』は?」
「若い記者さん、わたしはバーネイズだ。医者をしている」彼は右手を差し出した。「さすがに発音でわかるかね」
「もちろんですとも。フランス本国から? それともギアナからですか?」
「本国からだ。スナプスタイン教授の案内で、アマゾンの風土病の研究にな。新大陸の病気は、東南アジアやインドの熱帯病ほど研究が進んでいないからね。しかし教授の知り合いの案内人を待って、ずっとこの集落に足止めを食っている」
 バーネイズはそんな風によどみなく、「表向き」の目的を説明した。同じ話を、この地のお偉いさんたちに対して、飽き飽きするほど繰り返してきたのだ。
「それは立派で、有益な調査なんでしょうね。さすが先進国の方だ」
「ありがとう。ところできみはそもそも、フィールドワークの心得が、まったくないようだね」
「法学部ですので、仕方ないでしょう? それに現代で命がけの冒険があるのは、ヒマラヤか、あるいは宇宙ぐらいです。ベイツ(英国の生物学者。「ベイツ擬態」で有名)やウォレス(英国の生物学者。ダーウィンとは別に自然選択を発見した)、それにロンドン将軍(十九世紀の軍人。先住民保護のさきがけ)のアマゾン紀行なら何十回と読みましたが、あの程度の苦難なら平気です。それに彼らの探検は百年前のものです。今では飛行機やハイウェイがあるんですから、なんの心配もないですよ、セニョール」
 アランは開いた口が塞がらなかった。あんな穴だらけの砂利道が、ハイウェイなものか。
「つまり早い話、きみは──」アランに代わり、バーネイズが蠅を追い払うように手を振りながら言った。「軍の飛行機だけに頼って、取材先までひとっ飛びに移動して、そこで取材を済ませたら、乗ってきた飛行機か、高速道路でサンパウロへとんぼ返りするつもりなのか? それで特ダネ記事を?」
「さすがにそこまで無計画ではないですよ、ムッシュ。とりあえず三日くらいは下見をして、五日はかけて取材するつもりです。まあ、弾丸旅行ではありますが」
「たったの一週間じゃないか!」
「しょうがないでしょう、時間だけでなく、予算まで限られているんですから。さっき見せた小切手だって、ハッタリです」青年はさすがに声のトーンを落とした。「あ、でも、ぼくの記事が『レステ・デ・ソル』に掲載される予定なのと、『オ・グローボ』のデスクとコネがあるのは本当ですよ」
「しかし、いくらなんでも杜撰ずさんすぎる。パイロットはきっと、きみにお灸をすえるためにここに置き去りにしたんだろう。ここからならクイアバに引き返すのも、まだ可能だからな。とにかく、きみはアマゾンを見くびりすぎている。気候やその広大さについてもわかってない」
「そもそもきみは、一体何を探しに来たんだね。インディオでないなら、野生動物でもなさそうだ」とバーネイズ。
「ぼくですか? よくぞ聞いてくださいました」青年はやや機嫌を直して、胸を叩いた。「ぼくが探しているのは〈カチグミ〉……『シンドウ・レンメイ』の生き残りです。ご存じありませんか?」

 先の大戦──第二次世界大戦の最中の一九四二年に、ブラジル連邦共和国はドイツに宣戦布告。それに伴い国内に暮らすドイツ系・イタリア系・日系移民は敵性外国人に指定された。彼らは大西洋沿岸部での居住を禁止され、移民コミュニティ向けの新聞──例えば日本語新聞などの発刊を禁止され、さらに屋外で三人以上集まれば、共謀の容疑で逮捕されるなど、さまざまな不利益をこうむることになった。
「終戦の時、ぼくはまだ二歳でしたからよく覚えてはいませんが、両親からはよく、あの時の苦労を聞かされました。両親は四四年までは辛抱強くサンパウロで暮らし続けていましたが、近所の日本人がスパイ容疑で検挙されたのをきっかけに、営んでいた雑貨屋を畳んで内地の親戚の元に身を寄せました」
 この日系人の青年(名刺にはヒデキ・ジョアン・タテイシと書かれていた)は例の東屋で濡れた靴を乾かしながら、そんな話を始めた。タテイシの足元では、あの老犬が尻尾を巻いて眠っている。こいつはタテイシの手の臭いを熱心に嗅ぐと、それっきり彼から離れなくなってしまった。のみでもうつすつもりだろう。
「で、翌年の八月には、日本は原爆を二発も落とされてようやく降伏しますけど、ぼくたち日系人にとっては、そこからが本当の戦争でした」
 戦時下の日系移民は、ブラジル社会から完全に孤立し、戦局はおろか、ブラジル国内のニュースすら分からなくなっていた。さらに戦争末期には日系人同士の間ですら、回復困難な情報格差と断絶が生じていた。現地の新聞から時局を知ろうにも、彼らの大半はポルトガル語の読み書きどころか、会話すら満足にできず、ラジオも高価で、持っているのはほんの一握りだった。祖国の敗戦を伝える第一報も、中立国の大使館から紆余曲折を経て、日系人集落へ、何日もかかって小出しに伝えられたという。
「そんな細切れの情報しか得られなかったため、日本人は次第に〈カチグミ〉と〈マケグミ〉というグループに分かれて対立するようになりました。〈カチグミ〉は勝者、〈マケグミ〉は敗者という意味ですが、この場合は、そうですね、〈カチグミ〉は敗北の報せを連合国のデマゴーグだと決めつけて、一切信じないことにした奴ら。〈マケグミ〉は敗戦の事実を素直に認め、生活再建に力を注ごうと誓った人たちです。〈認識派〉とも言いますね。
 ぼくの両親はもちろん〈マケグミ〉でした。敗戦の知らせを耳にしたのは九月も下旬でしたけど、次の日には荷物をまとめてサンパウロ行きの列車に乗りました。それまで身を寄せていた親戚はどちらかというと〈カチグミ〉で、一晩中喧嘩した末に追い出されたというのが本当のところらしいです。でも、サンパウロに残した雑貨屋に戻ってみると、正面は退去するときに板を打ち付けておいたままで、中も特に荒らされた様子はなかったそうです。父は、この時ほど胸をなでおろしたことはなかったと、今でも言います」
「しかし、ほとんどの日本人が、その後も敗戦の事実を認められないままだったというわけだな」
「ええ、むしろ、ぼくの両親の方が少数派で、日本人の多くはとんでもない石頭でした。ぼくの両親は貧しい開拓民から、資本をつくって都市生活者になった、正しい意味での〈カチグミ〉──勝者です。しかしほとんどの日本人は、内陸の開拓地にへばりつくように暮らしていて、貯蓄をするわけでもなく、その日暮らしの生活をずっと続けていたんです。自分たちは祖国から捨てられたという被害者意識ばかり募らせて、心がすっかりささくれ立っていたわけですね。
 そのうち彼らの間で『日本大勝』というデマが発生して、世間知らずな奴らはみな、その噂に飛びつきました。ついにはわざわざ事実を教えに来てくれた善意の人間をリンチしたり、南洋の新植民地の土地の権利書というものまで出回りました。もちろん偽物です。やがて〈カチグミ〉では〈マケグミ〉に対して鉄拳制裁を加えるためのテロ組織が結成されました。そのうち最大のものが『シンドウ・レンメイ』なんです」
 祖国の敗北をかたくなに認めない日系人によるテロ組織『臣道聯盟』は、最盛期には十二万人の会員を有し、活動の中心地であるサンパウロ州に無数の支部を築いたという。
「彼らのテロ行為のターゲットは、戦時中にも輸出用の農作物を生産・販売していた日系農家や商店でした。初めは脅迫状が送りつけられて、次には家の前に犬や猫の死骸が捨てられて、それでも屈しなければ私刑と放火、金品の強奪です。これは半分、自分たちを差し置いて、戦時中に比較的よい暮らしをしていたことに対する嫉妬みたいなところもありました。
 次に奴らのターゲットになったのは、ぼくの実家のような、戦後からの〈マケグミ〉です。店のシャッターに『国賊』『天誅』といった落書きをされましたが、ぼくの実家が『シンドウ・レンメイ』から危害を加えられたのは、終戦から丸二年が経ってからなんです」
「なんということだ。日本人はそんなに長く、デマに惑わされていたのか」
「これは一種の狂信ですね。もちろん、本気でデマに固執していた者はほんのわずかです。警察のお縄にかかった『シンドウ・レンメイ』の構成員はみな、取り調べのときに『敗戦が事実であることは薄々わかっていたが、裏切り者扱いされるのが怖くて、迎合しているしかなかった』と証言したそうです。それでもこんなバカ騒ぎが完全に終息するのに、結局十年もかかりました」
「しかしタテイシ君。きみの話してくれた『シンドウ・レンメイ』事件は二十年以上も前のことだろう。それと今回の、きみの取材とどう関係がある?」
「そう思われるのも当然です、ムッシュ」そううなずくと、タテイシはアランの方を向いた。「教授、アマゾンにいる日本人盗賊の話を聞いたことはありませんか?」
「……ないこともないな。ブラジル政府の迫害を逃れた日本人が、ペルー国境あたりで盗賊団の棟梁とうりょうになったという話だ。もう十年以上前に、新聞で読んだきりだが」
「ぼくもよく知っています、教授。その話を知ったのがきっかけで、彼らに興味を持ちました」
「きみが狙っているのは、その日本人盗賊か?」
「別に、その盗賊一人だけじゃないですよ。それこそ麦わらの山から針を探すようなものです」タテイシは足を組んだ。椅子がギシギシと、心もとない音を立てた。「ここに来る前に、ぼくは警察に押収されていた『シンドウ・レンメイ』の内部資料を調べましたが、どうやらかなりの数の会員がサンパウロ州で内乱未遂を起こした後、例の日本人盗賊と同じく、内陸部へ逃亡したようなんです。アマゾンの熱帯雨林は未踏地だらけで隠れるには最適なうえ、インディオはアジア人とよく似た顔つきをしていますから、中に溶け込みやすいでしょう。それに、ちょっとでも太平洋に近づけば、いつか帝国海軍の船が迎えに来た時、一番乗りできる。『シンドウ・レンメイ』の内部文書には、そんな内容の与太話が本当に書かれていました。ボリビア経由のアンデス越えルートの計画図まで載っていたんです」
「『シンドウ・レンメイ』のメンバーは、その逃亡計画を実行したのかね?」
「傍証があるので、間違いないようです。この計画に乗った人数はよくわかりませんが、西に移動する逃亡者が行く先々の日本人コミュニティで寄付の名目で強盗をして、逃走資金を補っていました。彼らの足跡を追っていくと、最後はロンドノーポリス郊外の日本人入植地での事件に辿り着きます。サンパウロから線路沿いにやってきた『シンドウ・レンメイ』を名乗る連中が、入植地の人間をそそのかして集団離農を起こしました。それだけなら大したニュースではないんですが、離農に反対し、財産を差し出すことも拒んだ一世の移民が殺されています。彼らの足取りはそこでぷっつりと途絶えました。もちろん彼らがアンデス越えに成功したという話も、まったくありません」
「つまりきみの予想では、その『シンドウ・レンメイ』の逃亡者が、アンデス越えもできず、かといって街に戻ることもできず、かの日本人盗賊のように、ジャングルを彷徨さまよっていると考えているわけだね」バーネイズが訊いた。
「で、彼らの隠れ里を、空の上から探そうというわけか。紛れ込んだ針が多少大きくなっただけだ」とアラン。
「でも、現在でも東南アジアでは、日本の敗残兵が何人もジャングルを彷徨っているという噂が尽きません。相手が集団なら、焼畑や、炊事の火が確認できると思ったんですが……」
「インディオだって炊事や焼畑をするだろうが。見分けようがない」
「ええ、それはさっきのフライトでわかりました。なので今回は空路を諦め、自分の足をつかって〈カチグミ〉の隠れ家を探そうと思います。大学には休学届も出していますからね。今回は空振りでも、読者に興味を持たせる記事なんて、いくらでもつくれますから」
「…………」
 タテイシは便所に行くといって、靴を履きなおして東屋から出ていった。どういうわけかあの老犬もついていく。
「どうも、あの若者と、わたしたちの行き先は、重なっていそうな気がする」青年の姿が見えなくなるのを待って、バーネイズがアランにささやいた。「きっとあの若者は、色々と理由をつけて、我々についてきてしまうに違いない。カムフラージュには役立つだろうが、マスコミだ。面倒だぞ」
「あきらめるしかないだろう。マット・グロッソは広大だが、ヒトが定住できる土地は限られる。旅程は事実上、川に沿ったひと筆書きだ。こっちが望むと望まないとにかかわらず、ずっと同じ顔と向き合う羽目になるのは当然だ。第一、電話も電信もないところで、いくら腹の内を探られたとしても、痛くも痒くもないだろう」
「それはそうだが……なんだか雲行きが怪しくなってきたな」
 アランは東屋から顔だけを突き出した。
「確かに曇ってきた。乾季も終わりだな」
 周囲がにわかに薄暗くなった。そのまま天蓋を突いたような土砂降りになる。太い縫い針のような雨粒が、固くなった大地に突き刺さって、猛烈な速度で赤土を浸食していく。森の外れにあったあばら屋は放棄されて、中で臥せっていた人間がわらわらと這い出てくる。まるで脚を数本失った蜘蛛が必死に逃げているようだ。こんなに大勢の人間が隠れていたのかと、アランでさえ驚いてしまう。
 やがて、スコールでずぶぬれになったタテイシが、雨を破って東屋に戻ってきた。彼は肩で息をしていた。犬が身体を振るわせて雨水を跳ね飛ばす。
「どうだ、これが熱帯雨林の洗礼だ」アランは笑ったが、この東屋も、ずっと雨漏りを続けていて、足元がすでにドロドロだった。
「ええと、教授、これが雨季の始まりですか?」
「そうだ。これから一週間は、お天道様を拝めないだろう。そこから川が氾濫はんらんして、川幅が増した分、流れが落ち着くまでとなると、半月かな」
「半月──」青年はため息をついた。
「しかし雨が降らなかったら、そもそも船を使うこともできないんだぞ。今年の乾季は長すぎた。……さて、タテイシ君、きみはどうする? ここで尻尾を巻いて帰るにも、先に進むにも、飛行機どころか、船もすぐに出ないぞ。陸路も厳しいな。長雨のあとは、道路が何本も寸断するんだ」
「ああ、もう……くそっ」タテイシは短く悪態をつくと、東屋を飛び出して、豪雨の中、桟橋に向かって駆けていった。
「おい──」アランはバーで騒ぐ若者を諭すような声を出したが、言いかけてやめた。
 青年は立ち止まり、アランたちに背を向けたまま立ち尽くしていた。
「彼は一体なにをしているんだ?」バーネイズが訊く。
「さて、ただなんとなく、高ぶった気持ちを静めているだけじゃないか? あんたも若いころ、どうしようもなくなって、そういうことをしたときがあるはずだろう」
「思い出したくなんてないな、若いときのことなんて」
「そうか、初めて意見が一致したような気がするな」
 タテイシは天を仰ぐ。彼の顔を、スコールが叩いていく。それから数分後、ようやく気持ちの整理がついたのか、彼は肩を落として東屋に引き返してきた。
「わかりました。待ちますよ。待てばいいんでしょう。ぼくらジャポネーズはせっかちだ、待つことを知らないとよくささやかれますが、必要とあれば、きちんと待ってみせますよ」
 そうつぶやいて、タテイシはどかりと、粗末な椅子に腰を降ろした。
 雨はまだまだ止みそうになかった。

* * *

 わたしは飢えていたが、この腹をえぐるような感覚に、「空腹」という名前があることを知らなかった。「飢え」という言葉も、きっとどこかで聞いていたはずだが、それがおのれの肉体と関わる言葉だとは知らなかった。かつてのわたしは、飢えも満腹もない世界にいて、そこから落ちてきたらしい。
 森をさまよっていたとき、わたしは恐れの感情だけを抱えていた。それは、わたしに初めてとりついた悪霊だった。わたしを人にしているのはその悪霊で、わたしの心臓が、人間と同じ形に太りきった頃を見計らって奪い取ろうと企んでいた。
 次にわたしは、喉の渇きを悪霊から押し付けられた。わたしは地面から突き出た岩の窪みに水が溜まっているのを見つけて、それを飲んだ。のちにスキキライは、人間はただそのまま水を飲むわけではないことを教えてくれた。飲んでよい水とは焼いた水か、果物の汁か、汁からつくった酒のことなのだ。四つん這いになって川やくぼみの水を飲むことは獣のすることだ。
 次に心臓の管を通って、わたしの全身に満ちたのは「痛み」だった。水を飲んでから歩き出すと、しばらくして、腹がすさまじく痛み出した。それは体の内側からの苦痛で、わたしは動けなくなってその場にしゃがみこむのと同時に、尻の穴から、溶けた糞を垂れ流した。水のような糞はただ臭いばかりで、地面にしみ込んでいく。飲んだ水の量より多かったはずだ。身体は腐った内側を吐き出そうとしていた。苦しんだわたしは、そのうち飢えも渇きもどこか遠くに行ったことを知った。疲労だけが残った。わたしの足はまだ芋虫のように柔らかくて、小石や草木の棘で切り裂かれて無数の切り傷が出来、泥と固まった血で黒く汚れていた。こんなに長く歩いたことはなかったはずだ。わたしの身体のあらゆる骨がぎしぎしと音を立てていた。もう一歩も動けない、眠りにつきたいと思った。
 かつてのわたしには寝床が与えられていた。その寝床は雲のように白く、果汁のように清浄だった。そのことを思い出せば眠れると思った。しかしそれはおぼろげな過去だった。立ったまま眠る方法はないかと思案した。今のわたしなら、そんなばかばかしいこと、考えもしなかっただろう。試みる前に、わたしは自分の体臭より強い臭いが森の奥から流れてくるのに気付いた。それはワンガナ(ペッカリー)どもの体臭だった。その時のわたしはワンガナの実物を見たことがなかった。だからその臭いを、追いかけてきている悪霊のものだと思いこんだ。ワンガナの群れだって、十分に恐ろしい。しかし悪霊とは違う。わたしは慌てて逃げ出した。結果、さらに深い疲労につきまとわれることになった。その上、雨が降り出した。雨がこんなにも冷たいものだということも知らなかった。世界はこんなに暑いのに! わたしは自分が生まれたままの裸だということにもようやく気付いた。
 やがてわたしは、絞め殺しの木(イチジクの仲間のつる植物。からみついた木を最終的に枯らしてしまい、洞が残る)がつくる、籠の中のようなうろを見つけた。わたしはその中で雨が上がるのを待った。わたしは雨がすぐ止んでくれればよいと思った。しかし雨が止んで、雲の切れ間から太陽が覗いても、わたしに行く場所なんてないことに、ようやく気付いたのだった。
 わたしは木を伝う雨水で渇きを癒した。今度は苦しむことはなかった。わたしは絞め殺しの洞の周りで、なにかできることはないかと考えた。わたしはその木に戻って来られる範囲をぐるぐると歩いた。そしてたとえ木の姿が見えなくなっても戻って来られるという自信がついたら、足跡で描く円を大きくして、もっと遠くへ行こうとおもった。しかし円を大きくしていくうちに、また森の中を意味もなく歩いているのと変わらなくなった。そのことに気付かず、わたしはずっと、絞め殺しの木の周りを歩いていると思い込んでいた。またあの木に戻れば休めると思っていたから、疲れも気にならなかった。
 しかし陽が暮れて、夜が来た。この世での、わたしの一日目は終わった。いやひょっとしたら二日目だったのかもしれないが、もはや絞め殺しの木はどこにもなかった。虫と木々のざわめきだけが聞こえた。わたしのことなど気にせず鳴いている。わたしは喉の奥を締め付けられるような気分だった。この気分が、わたしを苦しめた、最後の感覚だった。悪霊ではなく、思い出せないままのわたしの思い出が、わたしを苦しめようとしていた。わたしにもかつて、家族がいたはずだ! それはスキキライや、子供たちではない、また別の家族のことだ。その家族の匂い。触れた手。他愛のないおしゃべり。だけど彼らとなにを話し、何を分け合ったのか。それが思い出せなかった。
 わたしは、火の起こし方も知らず、魚を生で食べる獣だった。朝になって、わたしは干上がった川を見つけた。そこには魚がわずかな水を求めてもがいており、鳥たちが魚たちを自由に捕まえていた。わたしもその中に混じって魚をとり、飢えをしのいだ。水もそこで飲んだ。歯の鋭い魚に噛まれて、赤い血を流した。

(以下、二章に続く)


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