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【福澤諭吉、最後の「自伝」。荒俣宏、最後の小説。】『福翁夢中伝(上・下)』序文&前口上試し読み

近代日本の父・福澤諭吉の生涯を、現代の知の巨人・荒俣宏が膨大な資料を渉猟して著した畢生の大作『福翁夢中伝(上・下)』が発売中です。福澤の自伝として有名な『福翁自伝』。実はそのあとにもう1冊の自伝を書いていたら? という設定のもと、福澤の一人称「わがはい」による最後の自伝として書かれた評伝小説の決定版です。本欄では、本書の序文と前口上、19ページ分を無料で公開します。

荒俣宏『福翁夢中伝(上・下)』
四六判上製/定価:各1980円(税込)
カバー写真:Bridgeman Images/アフロ
装幀:早川書房デザイン室

■あらすじ
明治三十一年、『福翁自伝』を著した福澤諭吉は脳溢血で倒れたのち、奇跡的に回復した。死から舞い戻った諭吉は、自分の人生をこう回顧する。短いようで長い己の人生、それはまるで過ぎれば消え去ってしまう夢の中の出来事ではないか──、と。そう考えた諭吉は、社交クラブ「交詢社」の一隅で、速記者の矢野由次郎を相手に、最後の著作『福翁夢中伝』を語り始める……。
咸臨丸での渡米、慶應義塾の創設、「経済」「演説」「版権」といった新たな日本語の発明、不偏不党の新聞『時事新報』の創刊といった功績の裏側や、勝海舟・濱口梧陵・小泉信吉・川上音二郎・北里柴三郎・福澤桃介ら、時代の傑物との交流──。
激動の幕末から明治維新を経て、日本国民の独立自尊を促し、この国の進むべき道を指し示した諭吉の人生とは……。

『福翁夢中伝(上)』


余計で、しかも長ったるい序文(読者よ、退屈をがまんして読みたまえ)


 さて、昨今聞くところによれば、この福澤ふくざわが速記させて世間にご披露した『福翁自傳ふくおうじでん』というものに、たいそう注目してくださっておるとのありがたき世情。感謝の言葉もありませぬが、ああした自伝なる雑書を物することは、すでに欧米の学者先生のあいだで流行するところと承知しております。その建前は、あとの世代に生き方の手本を残すという教育上の配慮と申すべく、巷間に一流と名が知れた学者はこれを執筆すべき義務があるようなことになっておるらしい。わがはいもその流行にならい、初めてみずからの半生を振り返ってみたのが、『福翁自傳』の真実でありますが、まあ、生き恥を他人様にさらすようでまことに気恥ずかしく、ついつい大ぶろしきをひろげて体裁をつくろったところが多々ありました。自分ながらチト物足りぬところがあったわけですが、先年、死ぬか生きるかの大病をわずらいまして、奇跡的にこの世に舞いもどったときに、ふと、その物足りなかったところを増補しておかねばならぬと気づきました。
 そもそも、ヒトというものは、恥ばかり重ねてきた自分をかえりみるとき、慚愧ざんぎのあまりおのれ自身がいたたまれず、死期に際したときなどに、おのれに向けての罵詈雑言ばりぞうごんや不平不満を正直に告白したくなるものと見えます。わがはいもまったくご同様、まだまだ吐きだしておかねばならぬ隠しごとが残っていたという次第であります。
 真実、明治三十一年にいちど死にかかった際には、地獄だかどこだかしらないが、枕元にたくさんの自分が押し寄せてきて、さかんにわがはいを叱りつけてきた。たくさんの自分というのは、あかんぼうの自分だったり、生意気盛りの中津なかつ時代にガキ道のかぎりをつくしていた自分だったり、あるいは『西洋事情』を書いて大売れしたのに、無断のニセ出版に利益の多くを横取りされて怒りくるった少壮学者の自分だったり、慶應義塾けいおうぎじゅくの経営に窮して金策に走り回っていた自分だったり、果ては、老いて出番のなくなった現在の自分、文明開化以後の日本人の行方ゆくえに危惧をいだいて暗澹あんたんとするこの姿だったりが、みな枕元に集合して、さかんにわがはいを責めまくったのです。まことに薄気味悪いことかぎりなかった。
 そのときわがはいは目をつむったまま、各時代のおのれ自身が吐きつけるりごとを聞かされた。それで初めて、わがはいの一生がそのじつ失敗の連続だったと気づかされました。ただし、後悔はふしぎになかった。むしろ、妙に楽しかったのだから奇妙なもんです。
 で、なぜそう思えたのか。この世に生還してよくよく考えたところ、わけが分かった。それは、老いさらばえた今の自分が、むかし世間の評判に乗せられていい気になっていた自分よりも、はるかに賢くなっていると知れたからです。肩で風切って道の真ん中を闊歩していた若い自分よりも、明治新政府の巨魁だった伊藤博文いとうひろぶみ井上馨いのうえかおるを向こうに回して勢いよろしく切り結んでいたころの自分よりも、また旧幕臣にもかかわらず新政府にすり寄って高位高官をせしめたかに見えた勝海舟かつかいしゅう福地桜痴ふくちおうちのような喧嘩相手を罵倒していた自分──そんな恥知らずの自分がつくづく愚かだったと気づけた今は、つまり福澤がむかしより賢くなっている証拠でしょう。
 だから、今ならばむかしの自分の愚かしさを批判できる。バカな自分を叱り飛ばせる。そういうことを自分が書いてこそ、正道の自伝といえるのではありませぬか。
 それで、わがはいはひそかにあらたな自伝を書く気になりました。読者諸賢には、どうかこの一書を福澤の懺悔録ざんげろくと思って、大笑いしながら読んでいただきたい。とはいえ、各時代に生きていたたくさんの福澤自身からも、賢くなった死に際の福澤に対し、反論やら何やらが投げつけられるに違いない。そうした反撃をこの場でなおも無視するならば、むかしの福澤たちにさぞや遺恨が残るであろう。そこでわがはいは、このあらたな自伝の書き方に破天荒な超絶技法を、たぶんわが国で初めて応用する工夫を、考えついたのです。
 すでに海外ではポリフォニイとか称し、時間と空間を超越して多くの“自分”を一堂に会させ、自由に討論させるという文学技法が試みられておるそうな。孔子と釈迦とクリストが面を突き合わせ語り合うというような趣向なのであります。ならば、過去の自分と今の自分が膝つきあわせて叱り合っても天則を犯すことにはなるまい。生涯を通して新しい日本語の改革にいどんできた福澤ならば、読者も黙ってやらせてくださるのではなかろうか。つまり、たくさんの福澤が寄ってたかって討論できるような場を「自伝」にもとめる。これは存外、よき思いつきじゃと、ひとり愉快を覚えました。
 だが、いざ書き始めてみて、よーくわかった。たくさんの・自分・を霊媒よろしくここに召喚して、一時に発言させるには、日本語の構造自体から改良する必要があると。よってわがはいは、この自伝において、人生最後の大破天荒だいはてんこうな実験をこころみることにはらを決めました。本書の中にさまざまな時代の福澤が登場し、さながら亡霊のごとくあちこちに出没しながら暴言を吐き、わがはいをつるし上げるという仕立てとなる。よって読者諸賢におかれては、これを尖端のべらぼうな戯文とお読み捨ていただきたく、ひらに御海容ごかいようのほどをお願いもうします。
 その代わりと言ってはテキ屋の口上めきますが、わがはいの恥ずかしき、すべて運だけを頼りにわたってきた人生を、包み隠さず、神かけて白日の下に晒すことを約束いたします。

福澤諭吉識ゆきちしるす

 

序文(編輯へんしゅう者に依る)                

時事新報じじしんぽう』編輯部主筆、石河幹明いしかわかんめい

 

「かねて慶應社中では、西欧の学者が自伝を残す習慣のあることにかんがみ、福澤先生にもぜひ自伝を書いていただきたいとする要望が高かった。しかるに、先生はつねに多忙であらせられるゆえに自伝執筆を実行する暇が得られなかった。だが一昨年秋に某外国人の求めに応じて維新前後の実録談を語った折り、ふうと思いついて幼児よりの経歴を速記者に口伝してみずから校正をなし、『福翁自傳』と題して『時事新報』に明治三十一年七月より翌年二月まで掲載をこころみられた。先生のお考えによれば、連載終了後はさらにみずから筆を執ってその遺漏をおぎない、また後世の人の参考のために事実による維新の顛末を記述し、別に一本として自伝の後に付す計画だったのである。だが、その腹案がほぼ成立した九月、思いもかけぬ大患に罹られ、まことに遺憾ながらその事業をはたすことが叶わなかった」
(序文のつづき、直筆による書き加えを写す)
「……しかるに天のたすけか、福澤先生は大病を克服された。そこで、石河のいうところの事業とやらを実現しようと先生は再度決意されたのであるが、何分にも体がもはや病前の福澤先生ではあり得ぬゆえ、心身への負担を極力軽減する新工夫を模索した結果、かような『本人多声討議(仮)』型とも呼びうる新自伝執筆法を採用することとなった。時と所を違えた福澤先生本人が多数まかりいで、先生の記憶回復をたすけるべくじかに対話に参加するという苦肉の実験であると承知されたい。
 なお、次頁に掲載するまえがきは、福澤先生がとくに本書のために創案された斬新なる文学手法についての詳説である。よろしく一読願いたい」 

碩果生せきかせい筆 

 

特別前口上「新たなる対話編」の筆法について

三十一谷人さんじゅういっこくじん福澤諭吉論述

 

 わがはいは今、『時事新報』編輯者の石河君と討議を終えたところである。石河君からは、このような形式の自伝を「時事新報社」名義で刊行するには、読者に対し丁寧な説明が必要であるからと意見が出たので、わがはいの口からこの筆法がただの戯れでなく、日本の文学の真摯な新実験であることを説明しなければならなくなった。そのために序文やら前口上やら、どうでもいいような御託ごたくを延々と書き連ねたことをまずもってお詫びする。お叱りを受けぬ先になんとか短くまとめるつもりであるから、著者が科す拷問とでもお考えねがい、今しばらくお付き合いいただきたい。
 まずもうしあげるが、わがはいはどうも、日本語を変革するために生まれてきた人間の一人ではないかと思うことがある。そもそも旧徳川幕府から委託されたわがはいの初仕事は、オランダ語あるいは後には英語なる異国語を、外交に資するべく日本語に翻訳する作業であった。しかし、文化文明のまるで異なる外国語には、日本語に翻訳できぬ言葉がいくらでも出てくる。そのゆえに、まず新しい日本の語彙を発明せねばならなくなった。
 ところが意外なことに、父親に教えられた漢学が蘭語翻訳の役に立ち、いわゆる二字四字で意味をあらわす漢語・熟語のたぐいを使えば英語を容易に日本語に置き換え得る事実を発見した。むろん、漢学先生が見られたならば顔から火が出そうな間違いだらけの漢語に違いあるまいが、これにカナ交じり文を加え、文末には「そうろう」とか「ござる」といった余計なことばをもちいないという、不調法だが自由な俗文をさかんに創作できた。どうもこれが日本語改革の第一歩だったらしいのだ。実際、翻訳するときには便利きわまりない。コンステトゥーシオンなどという英語も、憲法という二字漢語にすれば分かるわけだ。したがってわがはいはこの俗っぽいヘンテコ仮名交じり文を日本文の新スタイルとすることに決めた。正統な学者からどんなにバカにされても、あらためる気持ちはさらさらありません。

 そもそも世の人の益となることをめざす文章が、頭の古い漢学者みたような、読み方もわからんようなチンプンカンプンのむずかしい漢字や言い回しを好んでもちいるのであれば、これはうまい料理を作りながら、陶器の皿から食え、と言っているにひとしい。バカをいうんじゃアありませんよ。
 あの真宗の開祖となった親鸞上人しんらんしょうにんが、なぜ食肉という慣習破りをおこなって教えをひろめたか。食肉するような人々とも共にあることをめざしたからです。わがはいも、食肉をすすめるからには、みずからも食肉せねばならん。世間に向かって語りかけるなら、俗のことばで語るしかないのでしょう。
 この覚悟をおしえてくださったのは、今から四十年も昔にさかのぼる大坂の大学医、緒方洪庵おがたこうあん先生であった。この先生は普段は穏やかで出しゃばらないお方だったが、いったん文章を書くことになると、じつに大胆不敵、その書き方も自由奔放、型破りとなられる。当時大坂に緒方洪庵、江戸には杉田成卿すぎたけいせい先生という蘭学の両雄がおられた。ところがお二人は蘭学の教え方がまったく異なる。杉田先生は翻訳をされるとき、原文を一言一句漏らさず、漢字の字典などもくまなく参照して俗を脱し、高尚極まる文章をものされるので、ちょっと読みくだしただけでは理解ができず、く言えば熟読数回趣味津々として尽きない名文であった。
 ところが洪庵先生はちがった。細かいところは気にされず、ご自分で理解された部分を自分の書き方で縦横無尽につづられる。蘭学の翻訳書を読むのに漢学の字典が要るようでは本末転倒もはなはだしいといましめられた。だから、翻訳に当たっては、一字一句よく吟味してなるべく俗人に分かる平易な俗文を用いるようにと。とくに武士に読ませる文については、よくよく平易な言葉を用いるようにというのが、洪庵先生の教えです。なぜなら、武士は身分制度の頂上にいるが、中間ちゅうげん以下の武士は俗語も知らなければ漢字も書けない、きわめて無知な人達だからだ、とおっしゃるんだ。たしかにその通りだったので、わがはいが最初に訳した築城書などは特段に解りやすく書いたもんです。
 いや、正直にいいます、わがはいの父は福澤百助ひゃくすけといって、じつは漢学者だったのです。漢字も文法も使い方が厳格だった。根が武士だったから生き方が儒学そのものだった。銭を勘定するようなことは武士にあるまじき汚らわしい俗事だというわけさ。わがはいは藩のお勤めの関係で三歳まで大坂にいたんだが、土地柄で子どもも手習いにはイロハと一二三の数を覚えさせる。それでわがはいらが計算などを覚えようものなら、父は烈火のごとく怒って、銭の数え方なんぞという武士にあるまじき知恵を刷りこむような塾は即刻辞めさせろと、母に命じたそうだ。だからね、わがはいがいま、俗文にどっぷりとハマり、あまつさえ日本語に存在しない外来語を訳すのにていよく漢字典を調べまくって蘭語や英語の意味をそこに乗っけるなどという雅俗めちゃくちゃの日本語を操っている姿を見たら、父の百助は黙って我が子を斬り捨てただろう。
 そういうわけだから、うちのまわりには漢学者の親戚がたくさんいる。なかには、めちゃめちゃな漢字熟語や俗語をまぜる文章を心配して、将来ちゃんとした学者にも認められるようになるには、漢文や漢字をただしく使える訓練をしたほうがよいから、自分が教えてあげよう、と言ってくれるお方もいた。母の再従兄弟またいとこ高谷龍洲たかたにりゅうしゅう先生というお方がいて、ほんとに親身になって勧めてくれたんだが、かえってわがはいは俗文主義の志を固くした。そのときに、決意を表すための印章をこしらえた。今も使っている、ホレ、あの「三十一谷人」というやつだ。こっちも漢学者の息子だから、親父に強いられ幼年の時分に彫った印章の一つぐらいはあります。戯作っぽいんだ。世という字を分解すると三十一となるだろう。それから谷と人を合わせれば俗。つまり世俗に徹すという気分を込めた。これが一生の決意となり、日本語を壊す決心を固めました。

蓮如れんにょ上人のみちびきもある

 たとえば、「之を知らざるに坐する」とか書けといわれても、こんなむつかしい文章では同輩の武士にすら伝わらないよ。しかし、漢文調でもひらがなをうんとおぎない、解りやすい熟語に置き換えてやれば、だれにも分かる文になる。たとえば「之を知らざるは不調法にござる」としてやればいい。つまり、武士とか学者とかが権威をあらわすために無理やり絞りだした漢文、これを壊すには、俗語で翻訳してやればいいんだ。
 それで、わがはいはむしろ、叩きこまれた漢文体を、俗字俗語にうまく組み合わせて使うフクザワ流の、ムチャクチャ日本語を創作する方に力を注いだわけさ。で、まずはカナ交じりの俗文を習得するに便利な手本を探した。きっかけは十七、八歳のころ。旧蕃地ばんち、いや、旧藩地の豊前ぶぜん中津にいるとき、死んだ兄貴が友人と何やら文章のことで談話しているのを耳にしたことだ。なにやら和文のカナ交じり文章についての放談らしいのだが、いきなり真宗の蓮如上人という名が聞こえた。わがはいががらにもなく蓮如や親鸞のことにくわしいのも、じつはこのせいなんだ。そのきっかけは兄貴の教えであって、和文のカナ遣いは蓮如上人の御文様おふみさまに限る、あれは名文である、というんだ。これで蓮如の名が記憶に残った。しかし、その名文章なるものの実態は分からない。ようやく江戸へ出て、洋書翻訳を試みるようになって、御文様のことを思いだし、書肆しょしでその合本を手に入れた。
 この文章は、庶民に語りかけるように書いた法話である。また聞きやすいように、和歌のように七五調になっている。平易な文章を用いた名文で、読んでもじつに解りやすいし、聞くだけでも頭にはいる。カナ交じり文の手本としてうってつけだ。この聞きやすさの功徳くどくだろうか、信徒の中には漢字を読めない人も大勢いたのに、スラスラと教えを理解できたそうだ。書いた文章だが、聞ける文章にもなっている。じつはわがはいが文章を書くだけでなく、人々に語りかける文章こそが、最高の俗文だと感じはじめたのは、御文様のおかげだね。のちに西洋でも文章だけでなく演説というものが重要視されていることを知り、これこそが文明開化の武器であると信じたから、わざわざ演説館を建て、多くの演説をここで実践した。皮肉なことだが、この演説をもっと俗に利用したのは、川上音二郎かわかみおとじろうが試みた演歌だろう。この川上とはわがはいもチト因縁があるのだが、その経緯はまた別の機会に話しましょう。
 もうひとつ、フクザワ流の創始に貢献したのは、わが家学ともいえる漢字の熟語法である。漢字嫌いという割には、何だ、結局はオヤジの学問を借りたのかと言われそうだが、そうではない。わがはいは外国の新知識を日本語に移すのに、漢字の二字熟語を便利に使った。最初は字書をいろいろ詮索したけれども、西洋の新文字にうまく当てはまる熟語はみつからなかった。元来、文字というやつは観念の符号にすぎないから、その観念のないところに文字も生まれるはずがないのだ。ついにはこれら新知識をあらわせる新日本文字を製造するほかはないと考えを改めた。
 この新文字なるものは相当数にのぼるが、例をあげれば、スチームという英語に対する新文字を「汽」としたことだ。スチームは従来「蒸気」という漢字が使われていたが、これを一字であらわせないかと考えた。これというあてがないままに蔵書の康熙こうき字典を持ちだして、しゃにむに火へんや水扁などの部を検索するうちに、「汽」という字を見いだした。その註に、水の気なり、とあったので、これはおもしろいと思って、初めてこの漢字を用いた。いまでは汽船や汽車に使われておる字だが、三十年ほど前にわがはいが手さぐりして探し当てたものを即席の頓智とんちに任せて版本に載せたものだった。
 また、本を書く者にとって重大なコピヒライツという新概念は、日本にこれをあらわす文字がなかった。官許というのがよく使われたが、これは政府が発刊を許可したという意味だから、書籍発行の権利や名誉を著者が占有するという意味合いは含まれておらん。それでコピヒライツの横文字を直訳して「版権」という新文字を発明した。むろん友人が発明した新字もたくさんある。ある男がドルラルを表す英語の記号「$」を見て、これによく似た漢字の「弗」を当てたのもおもしろかった。
 もっとも、都合のよい漢字に気づかなかった失敗例も数が知れない。よい例がポストオフィスに対する新字だ。今は郵便局と書かれるが、当時はこの郵という漢字が日本では使われていなかった。それでわがはいも気がつかず、「飛脚ひきゃく場」という新字を考えだし、郵便切手に「飛脚印」という新字を用いたが、今日この言い方は世におこなわれていない。
 このように恥ずかしい失敗も数知れずあったけれども、いくつかのフクザワ流新字は生き残った。カナ交じり文と、漢字熟語を活用した新文字とを組み合わせた新しい日本語の製造は、わがはいがもっとも愉快を感じる世の人への貢献であったといえる。

本書の題名について

 さて、最後に本書『福翁夢中伝』の題名由来の辞を添えておく。
 じつをいえば、わがはいは、おのれの一生をさながら夢の中でのできごとではなかったかと感じている。短いようでいて長い人生であったが、過ぎればすべてが夢まぼろしに見える。それゆえ、自伝の書き換え版に『福翁夢中伝』と新題を付し、自分が製造した新日本語をさらに徹底させた最後の著作を完成させることにした。一度は死にかかった身であるから、もはや恐るるものはない。また、冥界を覗いたゆえか、先に死んでいった人々やもう過ぎ去った若い時分のおのれの声も聴けるようになった。
 そしてもう一言、肝心なことをもうしあげましょう。本書には物故者までが唐突に自説を述べる場面が頻出するが、こんな怪談ばなしじみた書き方でも、たくさんの物故者を語る際には直接その本人をあの世から呼び出して話をさせることができると分かり、どうせ本の上のことだから、だれでも自由に話にくちばしを入れられる書き方を試してみることにした。まあ、たとえていえば、この自伝は口寄せのバアさんやら神がかりの巫女さんやらが自由に故人の霊を呼びだして、生き残っている遺族と会話させるようなものだと思ってもらえばいい。どうです、蓮如上人には及びもつかないが、霊を呼びだして昔話をさせるという圓朝えんちょうばり怪談話法まで使ってしまえというのだから、これは新しい日本語技法でしょう。
 というわけで、どうか福澤の頭がおかしくなったと誤解しないでもらいたい。ここはソレ、新日本語の製造に尽くした福澤の一生に免じて、どうか寛恕かんじょねがいたし。ナムアミダブツ。
 ……と、石河君よ、これでよろしいか? よろしい? やれやれ、わがはい、いささか疲れもうした……
【(石河の声)、アッ、矢野やのクン、ソコハ速記スルナ。モウ、シマイダ】 

(速記者、矢野由次郎よしじろう


続きは書籍版でお楽しみください。


本書の刊行を記念して、12月11日(月)に慶応義塾大学三田キャンパス北館ホールにて、『福翁夢中伝』記念講演 荒俣宏・鹿島茂トークイベントが開催されました。下記リンクからアーカイブを視聴できます。こちらもあわせてご覧ください。



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