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【アガサ・クリスティー賞大賞受賞作】葉山博子『時の睡蓮を摘みに』冒頭試し読み公開!

第13回アガサ・クリスティー賞大賞受賞作、葉山博子『時の睡蓮を摘みに』が刊行されました。「クリスティー顔負けの人間観察と、ル・カレやグリーンのような文学的香気に満ちている(法月綸太郎氏)」「とてつもなく分厚い知識の土台に支えられ、候補作のなかで神殿のように屹立していた鴻巣友季子氏)」と最終選考委員からの絶賛を受けて大賞を受賞した本作。その冒頭2章を無料で公開いたします。

葉山博子『時の睡蓮を摘みに』
定価:2090円(税込)/四六判並製
装幀:坂野公一(welle design)


■内容紹介
あたしは、世界の本当の姿を知りたい。
1936年、旧弊な日本を抜け出し、仏印ハノイで地理学を学ぶことになった鞠。三人の男との出会いが、彼女に植民地や戦争の非情な現実を突きつける。運命に翻弄されながらも強くあろうとする鞠の人生の行き着く先は──。
第13回アガサ・クリスティー賞大賞受賞作。


『時の睡蓮を摘みに』

 みなが話に参加しはじめると、サン゠ルーの気を悪くさせまいとして、ドレーフュスのことはたちまち話題に上らなくなった。それでもその一週間後に仲間の二人は、軍事一色という環境にいながらサン゠ルーが、反軍国主義ともいえるくらいに徹底したドレーフュス派なのは実に奇妙な話だ、と指摘した。「それはね」と私は、あまり細部には立ち入るまいと用心しながら答えた、「環境の及ぼす影響は、人の考えるほど重要ではないからでしょう……」

マルセル・プルースト『ゲルマントの方』(鈴木道彦訳)

 仏領インドシナ。ジュール・ブレビエ総督のレジデンスに隠された暗い執務室から、秘匿電報のタイプ音が響いていた。

──極秘トレ・セクレ。一九三八年十一月二十六日、ある日本人将校のスパイ事案に関する予審が始まった。近くハノイで軍法会議トリビュナル・ミリテールが開廷する。有罪が見込まれる日本人将校と思しき人物の原隊、階級、軍歴は不明。至急、東京及び上海からも情報収集願いたい。被告は一般市民であると主張している。身分証明書に記載された姓名及び、自己申告された経歴はおそらく偽装である。予審の概要と直近一週間の写真は手交する。

第一部

1 一九三九年雨季 ハイフォン

 ハロン湾に浮かぶボートの上から、若者は外海のほうを眺めていた。──ただしくは、アオザイをまとったうら若い女だったが、髪が短く、菅笠を被っていたので、遠目には安南人の青年に見える。
 まりは近頃、日本髪を結えるほどに長く伸ばしていた髪を肩の上でばっさり切り落とし、フランス婦人のようにパーマを掛けた。湿気の多いハノイではそのほうが風通しもよく、都合がいい。北部地方の女たちは長い黒髪を一生涯大事にして、昼間はお椀のように巻いて出歩いている。だが日本とは──それも乾いた東京とは何もかも勝手が違うこの土地では、だらだらと長い髪はたとえ晩に洗っても、乾くのを待つ間にもカビが生えてきそうなほど、じめじめして鬱陶うっとうしい。ようやく乾いても寝ている間にじっとりと汗をかいて、目覚める頃には濡れている。ずっと、湿ったままの髪のせいで寝つきが悪かったのだ。この国の気候には慣れてきたとはいえ、数十分のスコールの間に本当に枕にカビが生えていてぎょっとした日もあったので、思いきってよかったと思う。
 鞠は普段着として洋服を着ていない。絹か木綿もめんの安南服を、ゆったりと纏うのが常だ。菫色ヴィオレに染められた木綿のアオザイは、岩が点々と浮かぶ青々とした湾景でよく映える。伝統的には、赤、藍、青、黒、紫が、安南人の主な色で、それ以外はあまり使われない。とくに、トンキン地方の人々が染めた黒や藍の綿の鮮やかさはよく知られており、何度洗っても色落ちしなかった。やはり昔からある濃い紫は、誰が着ても美しく見える。
 ボートはヨーロッパ人の男たちが漕ぐものだったが、番人に十サンチームばかりの硬貨を渡してお願いすると、ボートを貸してもらえた。だが、女一人では危ないといって、今日は老いた安南人が、日に焼けた皺くちゃの手で櫂(かい)を漕いでくれた。跳ねる水の音が、耳を優しく撫でていった。
 トンキン湾の北西にしっとりとひろがるこの内海は、切り立つ島々が押し寄せる波を砕いてはやわらげ、いにしえより天然の要塞として外敵からえつの王朝を守ってきたという。鞠はボートの上で、友人の美鳳ミーフォンから教えてもらった安南語の詩を口ずさんだ。彼女はグエン朝の官吏であった父から、匂やかな詩を幾つも教わっていた。ハノイがまだ昇龍タンロンと呼ばれていた十四世紀中頃、チャン大越ダイヴェットの文官、范師ファンスマンという人が故郷を愛でた舟歌だ。 

──私は王朝に三代にわたってお仕えした。頭の雪となるも、いまだ宮仕えから退いてはいない。私は香を焚き、紅河ソンコイを眺める。霧と河の流れがうれいに沈む私の頭に浮かぶ。……

 疲れがひどい時、鞠はこうやってもう一息力を出して、ハロン湾を眺めによく一人でちょっとした旅に出る。歴史を刻んだ、翡翠ひすい色の湾景に癒されるために。そして何もしないために。時の流れを忘れさせてくれる静寂の海流の上は、たとえ短くとも休息には格好の場所だ。──心からの休みがほしい。
 今まで何とか無邪気にやり過ごそうとしていたありとあらゆる矛盾が、知らぬうちに耐えがたいほどの疲れとなって心にのしかかっていたようだ。ここしばらく仏印で暮らし、大学教育を受けている鞠は、日本語を一言も使わない勉強のせいで頭がパンクしそうになっている。人種、階級、言語、慣習、貧富。最近のドイツ情勢。もっとも日独防共協定が結ばれたのちは、矛盾に関する自分の考えを周囲にお喋りすることもあまりない。いつの間にか、極東では支那事変、、が日常になっている。
 そしてやり過ごせないもう一つの──いや、一つしかない大きな矛盾。ある青年との、唐突で不可解な別れがあった。植田勇吉うえだゆうきち──生きて会えるかも分からないその姿を、鞠は雨靄あまもやの中で透かし見るように、必死で思い出そうとしていた。
 船着き場で編み笠を被った老番人にボートを返すと、鞠は通り雨に濡れながら、ハイフォン駅行きのバス停へと向かった。

2 一九三六年春 東京/ハノイ

 鞠が赤坂の私立女学校を卒業する前年の春、綿花交易に携わる父親がハノイ駐在所の所長を拝命し、単身赴任することになった。父子家庭の一人娘である鞠は、厳格すぎる祖父母の家ではなく、内務省官吏である伯父の家に預けられた。
 なぜ伯父の家かというと、白髪を丸髷まるまげに結いお歯黒はぐろにした祖母が、鞠の亡くなった母のみならず、その娘である鞠のことも毛嫌いしていたからだ。明治民法下の時代、戸主でもその相続人たる長男でもなく、次男坊でしかない父にとって、実家はどだい気やすく寄りつける所ではない。ましてや掟破りな自由恋愛の結果である娘を、旧習にがんじがらめの実家に預けるなど、途方もない選択肢だった。それに、従姉妹たちに囲まれていたほうが、喋り相手がいて寂しくなかろうと考えたのである。鞠はこの従姉妹たちと、ほとんど面識がなかった。
 鞠が伯父の家に居候いそうろうしていたのは父がインドシナに旅立ってからの一年ほどだったけれども、この時期のことを、鞠はあまり思い出したくない。
 初夏の日差しの下、長持ながもち一つと行李こうり一つを携えて東京近郊にある伯父宅に転がり込んだその日から、鞠はさっそく不吉なものを感じた。
 父のほどお洒落じゃない分厚い眼鏡を掛けた伯父は、無表情のまま鞠を見下ろしていた。本当にこの人が父の実兄なのかと疑うほど堅苦しい。笑顔で挨拶しても、低い声で「ん」とだけ言って頷き、あとはもう、何も喋りかけてはくれなかった。こちらから話し掛けてはならないという雰囲気もあった。だが鞠の夢は女専に行くことだ。この一年受験勉強を頑張ればこんな陰気な家を出られる。向こうからは口もきいてくれず、鞠が外で串団子を買い食いしているのを伯母に密告してほくそ笑む従姉妹たちともおさらばだ。少しの我慢じゃないの──と幾度も自分に言い聞かせてきた。
 受験が迫った二月の積雪の日、青年将校たちによる反乱事件が起こって東京に戒厳令が敷かれた。女専の試験日が延期になったり、内務省勤めの伯父がどこかに出掛けたきり何日もうちに帰って来なかったりした椿事ちんじのあと、鞠には一次試験不合格通知が届いた。
 ハノイにいる父は電報で慰めてきたが、伯父も伯母も、むしろ不合格を祝うありさまだった。落ちた時、新しい世界への憧れがくすぶったまま、鞠自身、妙に納得してもいた。女学校で学んだことといったら、裁縫、生け花、お茶、箏曲そうきょく。眠たくなる修身に、お手あげだった英語。そして家政科という名の、家事のいろはに膨大な時間が費やされていた。 
 裁縫の成績がいい女生徒はいつも先生のお気に入りで、クラスメートが群がって取り巻きもできる。鞠のクラスメートは、家で母親や姉たちに裁縫を教わっているからか、学校で習うより複雑な縫い方を知っていた。授業は、学ぶための時間というよりはすでに持てる技の品評会になりがちで、だれの母親が優れているのかという話に変わる。父子家庭の鞠は裁縫についてゆけず、後から先生に質問しても面倒くさそうにあしらわれる。一生懸命授業を聞いているのにうまくできない鞠は、終始黙っているしかない。気がついたらクラスメートから孤立し、次第に避けられるようになっていた。しかも、避けられることによって、ますます変り者に見えてしまうものらしい。
 入学してから、みんなが興味を持つことに興味を持たなかったがために変り者と思われ、みんなから外れ者にされていた鞠は、結婚相手以前にただの友達が欲しくてならなかった。いや正確に言えば、一年生までは一人だけ友達がいた。陸軍の将官の娘で、このお嬢様学校では珍しく質実というか剛健というか、おさげもあんまり上手に結えない鞠をつっと無視せず、ピクニックなんかにも連れ出してくれた唯一の友達だったのである。ところが二年生の春、その子が親の転勤で転校して以来、鞠は五年生までついぞ一人ぼっちのままだったのだ。何かあれば意見を言おうと、遠慮せず手を挙げる鞠を取り囲んでは黙らせる、善意にかこつけたクラスメートの強圧もある。体が不調をきたし発疹ほっしんに悩んだ。
 休み時間に入った途端、近くの中学の男子生徒からぶみをもらった子の話やら、婚約者の話やらで教室は沸騰し、鞠の静かだがほとんど空っぽな一人きりの時間が騒々しくなる。初老の地理教師は教卓の上でノートを閉じている。埴輪はにわのように表情のないこの先生は、「オホン!」と一つ咳払いをして、一番後ろの席にいる鞠を一瞥いちべつした。すると鞠はにこっとして、少女の波を掻き分け、教卓の方へ駆け寄った。その先生は、この学校で鞠を外れ者にしなかった唯一の人だった。短い休憩時間に教科書の一歩先の話を聞くのが、鞠のひそかな愉しみであった。

 憧れだった名門女子専門学校の受験に失敗した鞠に残されたのは、縁談である。
 女専じょせんの試験に落ちた鞠は、伯父の紹介で、春からタイピストか電話交換手の仕事につく手筈だった。が、いつまでも鞠を下宿させるのはまっぴらだからと、もう〈片付ける〉ことに決めたらしい。すぐに婚家にやるのではないが、桜が散らないうちに婚約にだけは漕ぎつけ、その後は婚儀にむけ、万端準備を整えるのだという。
 相手の男は伯父の知人の息子で、帝大法科を出て、おととしの春からやはり内務省に勤めていた。すなわち職場では伯父の部下の部下という間柄だった。先方は最初からその気でおり、伯父との内務本省における関係が色々とあるから、滅多なことでも起こらないかぎりは纏まるだろうと伯母は鞠に釘を刺してくる。縁談には、父も賛成だった。
 見合い当日は夜明け前に起床。道具を持って家にやってきた髪結いに、うねる髪をぐしで頭痛がするほど引っ張られながら島田に結い、地黒の肌は真っ白に塗られた。美容院で下手にモダンな洋髪にするより、日本髪のほうがきちっとして見え、先方の母親の印象がいいだろうと、昔気質かたぎの伯母が判断したからだ。綺麗にしてもらえると聞いて、はじめはワクワクしていたが、息が詰まるほどぎゅうぎゅうに帯を締めあげられた頃から、鞠はだんだん気分が悪くなった。見合いの席の様子はおろか、伯父の知り合いの息子で部下だとかいう相手の顔も、仲人の声もあまり覚えていない。
 覚えているのは、玄関で学ラン姿の従兄に無視され、たくさんいる従姉妹たちには「その顔じゃ無理」などと面と向かってけなされながら出掛けたこと。男とその母親から尋ねられたことに対して、自分の思うところを、「わたし」を主語にして、はきはきと正直に申し述べたこと。先方が顔をしかめて席を立ち、帰り道は伯母に「この恥知らず!」と、手首をつねられて痛かったこと。晴れの日に感じた、とんでもない孤独。
 一件のあともしばらく怒りの収まらない伯母を伯父も見かねて、ハノイにいる鞠の父に電報が打たれた。仕送りがあってもこれ以上姪をうちには置けないから、即刻引き取れという。兄から怒りの電報を受け取った父は、何が何だか分からないまま、すぐさま鞠をハノイへと呼び寄せることになった。
 荷造りが終わってから鞠がもう一度会いにいったのは、あの地理教師だ。
 受験にも縁談にもつまずいて別れを告げにきた鞠に、先生の小柄な奥さんが昆布茶こぶちゃとあられを出してもてなしてくれた。子どものない夫妻だった。坪庭に面した縁側で、先生は膝に三毛猫を抱いている。教壇に立つ時とはうってかわって、声は穏やかだ。
「行先は仏印ですか……。あなたの学年から、何人かはもう縁談が決まって、卒業してすぐに、まだ顔も知らない良人おっとのいる満洲や台湾に行くことになった生徒もいるそうです。でも仏印というのは珍しい。ハノイも上海のように、東洋のパリと呼ばれているんでしたか。日本紀略にほんきりゃくには、阿倍仲麻呂あべのなかまろ安南アンナンに漂着したと伝わる。御朱印船ごしゅいんせんが往来し、日本町もあった。それがフランス領になるとは、いったい誰が想像できただろう。上海には日本人も大勢住んでいるが、ハノイに行ったというのは、身近で聞いたことがないなあ……」
「父があちらで綿花の買い付けをしているんです。もう一年になるでしょうか。でも身の回りの世話はボーイさんがやっているようなので、あたしがやるべき家事なんてないと言われていますし。五年も勉強した家政も役に立たないなんて。満洲に行く子たちなら、いまごろ花嫁衣裳いしょうの支度をしながら、みんなからお祝いされて船に乗るけど、あたしは、将来のことがまだ何も決まっていないまま船に乗るんです。……あたしは納得できないんですけど、その……こないだの縁談が破談になってから、あたしが原因で、父は伯父との関係がギクシャクしてしまったらしいの。でも、あたしは今とても晴れ晴れとした気持ちなんです。せっかくの機会なんだもの、また日本に戻って来るまでは、あちこち旅行してこようと思っています」
 先生は目を伏せながら、思い出したようにこう呟いた。
「こういっちゃ失礼ですが、今の時代にあなたが男じゃないのは残念だった。でも、これは制度上の問題で、一介の教師でしかない我々には、どうしようもないことなんです。この前、あなたに差し上げた地理の問題は、士官学校と、一高の入試問題ですよ。与えられた素材で謎解きすれば良かったのが士官学校の問題で、数学のように白紙状態から証明しないといけなかったのが、一高です。あなたはどちらも解けていた。もっと自信を持つといい。ところで、ヨーロッパの大学は女子も入学できると聞いたことがある。ハノイのことは知らないが、植民地にも大学くらいあるでしょう。フランス領なら、本国と同じで女性も学べるのかもしれない。向こうに行ったら、地理学の講座が聴講できるか聞いてみるといい。女専なんか行ったって、和歌と裁縫を余分にさせられるだけで、あなたの人生の時間が無駄になるだけですよ」
 容姿の悪さから一、二を争う不人気だったこの先生は、どうやら学校では一番進歩的な考え方を持っていたらしい。ふと気がつくと、落ち窪んだ先生の目がいつもより強く鞠を捉えている。曲がった唇からは、独り言ともつかない言葉が漏れてきた。
「さて、この子は将来どこへ辿り着くのか。楽しみだな……」

  仏印へは、大阪商船による神戸・ハイフォン航路がある。南洋に向かう日本人は少なく、他には日本在住の華僑のほか、わずかにフランス人の姿も見えた。鞠は、柳行李二つとトランク一つだけを携え乗船した。本当は、日本郵船の上海航路を経由して、上海も少し見物してからフランス船に乗り換えるつもりだった。しかし直前になって、上海では排日運動のあおりもあるし、嫌な気配がすると、父が急ぎ電報でそのルートを取り消させたのだった。
 ハロン湾に入ると、青緑色に輝く岩石が、古代王朝を描いた水墨画のように目前に点々と浮いている景色にうつつを忘れかける。客船の汽笛が、鞠の意識をこちら側に戻した。乗客はみなデッキに押し寄せ、遠い昔から一つも変わらぬ極東の湾景に吸い込まれていた。やがて客船はタグボートに曳かれながら、ハイフォン港のある河川へと遡上そじょうしていった。菅笠を被った裸足のクーリーたちがロープを結びつけているのを見ると、いよいよ外国の植民地に来たのかと実感がわいてくる。
 人だかりのなかでも、鞠はすぐに、白麻の背広を着込み、丸い眼鏡を掛けた父の無骨な顔を見つけた。こちらに向かってパナマ帽を振っている。鞠はふっと破顔し、旅行鞄を運ぶポーターよりも先に、二等船客用の懸け橋を走って降りた。
 ヨーロッパの客船が停泊する整然とした港湾施設から、緑色のフィアットで少し走ると、安南人が使う漁港が目に入ってくる。生魚でいっぱいの天秤を担いだ、ほとんど裸の、骨ばった体つきの男たち。日本の田舎の風景をどこか彷彿ほうふつとさせる。海には木製の平底船サンパンが所せましと並んでおり、岸辺には、森から伐採されてきた竹が水を覆うように浮いている。仏印の海の玄関ハイフォンから、首都ハノイまではおよそ百キロ、二時間のドライブだ。
 ハノイ市街地に入ると、官邸やメトロポールホテルが建つアンリ・リヴィエール大通りは整然とした並木道になっていて、街路樹の緑が爽やかだった。小湖プチ・ラックの西側は、壮麗なカトリックのカテドラルが目を引く。
 大湖グラン・ラックほとりには植民地連邦の権力中枢である総督府がそびえ、後ろには植物園が控えている。その東側には、名門の共学リセ・アルベール・サロー校と女子学院が並び、広大な阮朝の城址は、フランス軍の兵器しょう、兵舎、演習場に置き換わっていた。
 プチ・ラックの南側に広がる四区から六区はフランス人街だ。
 フランス人と安南人の居住区はきっちりと分け隔てられているが、民族や国籍に関係なく、富を持つ者はフランス人街に移り住んだ。そうでない者は、プチ・ラックより北、旧市街地の大半を占める現地人街ヴィル・アンディジェン──もしくは、フランス人街よりも南側に開発された新市街地に住んでいる。フランス人街に住むアジア人は、かつてはユエの乾成カンタイン宮に住んでいた安南人の皇族の子孫や上流階級、以前から住み着いている華僑の資本家、そして各国からの外交団だったが、そこへ比較的新参者の部類に入る日本商も加わった。ここに住むフランス人は本国から来た人もいるが、見た目がヨーロッパ人でも、インドシナで生まれ育って安南語を解し、本国には帰る場所のない人びとがかなりいるという。
 プチ・ラックの北側、安南人が昔から居住する一区から三区は、様子ががらりと変わる。
 内庭のある二階建て木造家屋が、うなぎの寝床のように建ち並ぶ。なかにはフランス建築の風情を取り入れた、半近代的な建物も見える。寺院からは麝香じゃこうが、屋台からは揚げ物の匂いが漂い、花屋の菊の匂い、腐りかけの野菜に人いきれ、炊いた飯の湯気、生きたまま売られている鳥獣の臭いがないまぜになって、砂埃と一緒に宙に巻き上がってくる。いつも活気があり、托鉢たくはつ僧、行商人、京劇役者、ありとあらゆる種類の人間が押し合い圧(へ)し合い行き交っている。リキシャ、馬車、ごろごろと車輪を鳴らしながらやっとのことで動いている荷車。馬のいななきに、水車の回る音。
 だが雑多な音も匂いも、睡蓮の浮かぶ湖の静寂に吸い込まれてゆく。
 到着早々、父親に真っ先に連れてゆかれたのは、フランス人街にある病院だ。フランス人の医師から注射器で打たれたのは、コレラ・ワクチンだった。
 十九世紀の半ばにコレラが大流行し、ハノイのある北部トンキン地方でも多くの人命が失われたが、一九二六年、南部のコーチシナを中心に再び猛威を振るった。この教訓から、フランス当局がインドシナ全域で大規模なワクチン接種活動を続けてきた甲斐かいあり、今は落ち着いているらしい。コレラのほかに定期的に接種されているのは痘瘡とうそうワクチンで、これも避けては通れなさそうだった。
 着いてからしばらくは、外ではワイン以外は飲むな、家以外では、冷たい飲み物も、料理に添えられた生野菜の付け合わせも口にするな、と父に厳命された。たしかに、到着早々コレラにかかって瀕死になり隔離されるよりは、酔っぱらったほうがよほどマシ、ということは理解できる。
「ヨーロッパ人は冷水を飲むのが好きだが、つられて、つい生水を飲もうと思っちゃいかん。瓶詰の炭酸水なら飲んでもいい。あれはアルプスから取ってきた水だからな」
「そんなに水が危ないの?」
「安南人は、いつも生水だけは恐れている。彼らは木炭でよくろ過してから、必ず煮沸し、お茶の葉で煎じてからでないと絶対に口にしない。水が原因で、村が全滅しかけたなんてことはざらにあった。トンキン地方は、年中そうだが、二月の終わりから三月のはじめは安南人も恐ろしい時期だと言って特に気をつけている。フランス人街に上下水道が整い、いかに蛇口から出る水が綺麗に見えても、慣れるまでは、うがいに使う水も気をつけたほうがいいな」
「郷に入っては郷に従え、ね」
「まあ、普段、気をつけるべきことに気をつけて、早く慣れるんだね」
 ワクチン接種を終えると、つぎは買い物だった。父は、どうもあか抜けない娘を見かねたらしい。婦人服のメゾンへゆき、フランス女たちが纏うア・ラ・モードの服を、何着か新調することになった。
「おれは伯母さんに、おまえがみすぼらしいなりをしないようにとわざわざ余分に金を送っていたんだがね。おまえは見ないうちにノラ猫のようにがりがりに痩せているし! ろくに洋服も買い与えないなんて。おれがおまえに送った金は、どこに消えたんだ? 万年内勤の役人で子だくさんの、兄さんの懐具合が知れるよ。身うちだからって何でもうやむやにされたが、消えた会計については、こんど義姉さんに明細書を送ってもらう!」
 日本人がハノイ銀座と呼ぶ繁華街のポール・ベール通りには、シトロエンやシボレー、パッカードのオープン・カーが行き交い、パリと同じような造りの百貨店グラン・マガザン、映画館、高級レストランに一流ホテル、香港上海銀行、新古典様式のオペラ座が構えている。婦人服のメゾンは、それらに挟まるように可愛らしく建っていた。
「おまえも、とっととマダムと呼ばれる女に脱皮してもらわんと困る」
 鞠はあでやかなオランダシャクヤク色のローブがとても素敵だと思い、どうしてもとねだって試着させてもらった。すると、濃いピンクに飲まれたその姿を見るやいなや、父は、セ・ビザール・プール・マ・フィーユ!(うちの娘に似合わんこと甚だしい)とか何とか言い出すのだった。「そりゃダメだ、ダメ! 次!」
 鞠はふくれた。
 切羽詰まった商談のように、採寸はお世辞ぬきにてきぱきと進んでいく。どんどん別の色の布がかざされてゆくなか、植えたばかりの稲のような、淡いグリーンのローブに心が持っていかれた。その半袖のシルクローブの色は淡くても鮮やかで、形もとても上品だ。それにこの肌触り。柔らかいサッシュで腰を締めると、フレアになっているすその印象も変わる。
 父はインドシナ銀行の小切手シェックにサインし、店員にひらりと渡すと、仕上がりの日を確認してから鞠とメゾンを出た。同じ日、鞠は父親にねだって、ヴィオレに染められた木綿のアオザイも一着、現地人街であつらえてもらった。この国の風景を美しく彩るその装いが、鞠の心に焼きついて離れなかったからだ。

 鞠は、プチ・ラックの東、幸福通りリュ・ボヌールのアパルトマンに父親と一緒に住み、日中はフランス語教室に通っていたが、ある日、父が鞠に一人暮らしを提案した。年頃の娘が家にいるとまだやらねばならぬことがある気がしてならず、休日も何となく気が休まらないとか、風呂場にズロースや腰巻を干すなとか文句をいうのだが、鞠だって弁士のような父と離れて、一人になりたかった。父はもともと日本商人にしては遠慮なく物を言う人だったが、こちらへ来るとあのフランス的な個人主義に染まり、セ・ノン(それはお断り)! とか、ジャメ(決してない)とか、奥ゆかしくないことばかり口走るようになっていた。
 父が物事をはっきり言う人なら、鞠も遠慮せず言う。ついには親子のいさかいが絶えなくなると、父は鞠の一人部屋を探すべく、ハノイの不動産オーナーやエージェントに、片っ端から電話を掛けはじめた。
 父は受話器を一度耳から外すと、不動産エージェントの言葉をすぐ和訳して、鞠に伝えた。
「『現地人アンディジェンのお嬢さんが親元を離れるときは嫁入りと相場が決まっておりますが、ヨーロッパ人のお嬢さんがたは、成人になると、よくお一人暮らしなさるものでございます。ハノイには何せ総督府がありますから、ヨーロッパ人街なら危ないってことはありません』だってさ」
 新しい部屋は六区で見つかった。いつも警備が厳重であり、安全と言われているが、ターミナル駅であるハノイ駅をはさんで西側に、現地人街キャルティエ・アンディジェンの一部が含まれている。鞠のアパルトマンはフランス人街にあるといっても、現地人街寄りのところに建っており、部屋の窓からは、藁葺わらぶきの低い家々に、瓦屋根の寺院、それに田んぼが視界に入る。フランス人街にはどこでも上下水道が通っているので、鞠の部屋にも、お湯の出る風呂場サリュ・ド・バンに、家具、扇風機までついている。小さなバルコニーも素敵だった。華僑の仲介業者も贅沢リュクスだと太鼓判を押していた物件だが、部屋があるのは五階。リフトはカタツムリみたいで用をなさないし、部屋にたどり着く頃には、息が上がっている。
 さすが東洋のパリというだけあって、夕方に窓を開けると、風に乗って、どこからか出汁だしの匂いが漂ってくるのだった。

(続きは書籍版でお楽しみください)



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